仕事をしていると、とても立派なことを言っているのに、みょーにセコかったり、狡いところがあったりして、大変なのはわかるけど、こっちが本当なのかなぁと思ってしまう人と会います。

特に、経営者と話す機会がある仕事ですし、その懐事情を知り得てしまうので、余計に色々分かり過ぎてしまうんですね。


経営の勉強って、多分実践に勝るものはないですし、その実践に向けて心を整える方法を勉強することが、唯一出来ることのように思います。

それは、他の経営者の本や自己啓発の本を読むということではなくて、哲学書や文学を読むことだと思っています。


「人が生きること」とは、どういうことなのか。

ということについて、自らに問いかけ続けていったとき、外側に何かを求めることはないからです。


「誰かを救いたい」と思うことは、とても素晴らしいことですが、「私が救われたい」というものがあるかもしれないということは、置き去りになっていることが多い。

もちろん、「私が救われない」という思いがあってもなくても、「誰かを思うこと」は尊いのですが、自らの本音も知っているかどうかは大事です。

自らを知るということ。


外側に成長を求めることや成功を求めることではなく、「人が人であるために、これをやろう」と続ける中で、『求められて』やることで大きくなってしまうというのが、本来の在り方のように思います。


そもそも借金をして行うのは、儲けたいというエゴが働いているような気がしてしまいます。

もちろん一時的にすることは、悪いことではないです。そういう仕組みがあるのですから、状況によっては、現代の仕組みを利用するということに悪いことも良いこともありません。

ここでも、目に見えない世界のエネルギーで考えると分かりやすい人には分かるかと思います。

どういう思いで、その物質としてのエネルギーを使うかと言うことです。



無理をするとおかしくなります。

どんな立派なことを言っていても、それが自分のエゴを隠すための建前で有れば、扱うエネルギーが大きくなればなるほど、綻びは出るし、その綻びは大きくなります。

もちろんその人にエネルギーが有れば、それも乗り越えられるでしょうが、なければ周りにある多くのエネルギーを失うことにもなります。

それは、そうならないと気付かないことが多いでしょう。

だから、大きくなることには、『求められて』というのが、大事になるように思います。


本当に求められて大きくなるときは、無理がない。

なんだか分からないけど、助けてくれる人が現れたとか、なぜかその部屋が空いていたんだよねとかそういうことが起きてきます。

いい忘れましたが、ここでいう『求められて』というのは、見える存在からも、見えない存在からも、という意味です。

そういうタイミングには、必ず前兆があります。


有名な経営者というのは、そういうのを感じ取っています。
皆さん、たまたまというので、スルーしてしまう人も多いと思いますが、たまたまではないです。

その前兆に気づくのは、たまたまではないです。

ただ、その後の行動には勇気が必要な決断があるということだけは、付け加えておきます。



また、人にはそれぞれ意識の及ぶ範囲というものがあります。

一昔前の長老と言われている人というのは、その範囲が一族に及ぶので、長老であったのです。

意識というとざっくりした言い方ですが、その一族の誰々が、何歳で何処に住んでいてというような個体の情報はもちろんのことですが、彼がいつ帰省したとか、彼女がどんな不安や不満をもっているという類の実際には見えないけど、直感的にそう思う、気づく感覚の範囲が、意識の範囲と言えるかと思います。

私の祖父もそういう人です。

ずっと自然と対峙してきた人ですから。それがそのまま信仰心に繋がっているように思います。


会社も同様で、家族よりも長く一緒にいるわけですから、この意識の範囲がどの程度あるかで、その経営者の器の大きさは決まります。

これだけの人数は、観れないし分からないと、経営者が言ってしまったら終わりです。自分で大きくしたのですから。


現代で言えば、意識の範囲が広いということは、エンパスであることに近いです。

相手の状態に気づきやすいのですから、フォローもしやすい。
喜びも共感できます。

不味いなという会社の綻びにいち早く気づくため、対処できます。


会社の仕組みとエンパスの違いは、

会社や家族は、連絡相談報告という指揮命令系統の徹底と人と人の対面という肉体を主とする擬似的な『血縁』による連鎖と連続によるもの。

エンパスは、魂の性質によるもの。

というところでしょうか。