毎年この日は、実家のお祭りの日にあたります。
今年は、コロナの影響で中止になることが、結構前から決まっていましたが、結果的に台風もきていたため、どちらにしても難しかったかなぁと思います。
子供の頃からとりたててお祭りが好きというわけではなかったのですが、当たり前のように友達と朝早くから出かける約束をして、集まって山車を引に行っていました。
親戚のうちにいくと、ばあちゃんが金銭感覚のズレた小遣いをくれたり、写真を撮られたり。
地域に法被を着た子供が、わいわい歩いているという姿そのものにも意味があるのかもしれないですね。
とても健全といいますか。
田舎なので、この家が誰々のうち、誰々の親戚のうちなど、大人はみんなわかっているので、とても安心、変な人がいないかといったら、そんなことはないですが、そういう人も含めて、大人はどこの誰か分かっているので、やばかったら連れ出すし、叱るというような感じでした。
何が楽しかったのか?
楽しいというよりも、その日の特別感、学校が休みであるとか(金曜に当たる時は休みだった)、いつもを違う服を着るとか、友達が楽しそうだとか、お小遣い貰えるとか、お菓子もらえるとかそういうのに、気持ちが高揚していたという感じかな。
それを楽しいというのかもしれないですね笑
山車には太鼓を叩く人、踊る人が乗り、スピーカーで唄を唄いながら、町を練り歩く。
町の端から端まで。
でも小さい町だから、何処にいてもその唄と太鼓、笛の音が聴こえてくる。
大体、あの辺かなとか分かる。
山車は、昼と夜とで雰囲気が変わる。
変わるというのは、当然で山車に乗るのが子供から大人になるからだ。
太鼓の音、踊りの激しさもそうだが、唄の抑揚や山車の動き方、演奏まで変わる。
今の時代だと、騒音だとかいう人もいるのかなぁ。
そんな野暮な人はいなかった。
というか、思っていても多くの人のために言わないというのが、当たり前のことだったのでしょう。
こんな田舎で普段は静かで落ち着いた人たちの激しさ、高揚を垣間見る特別なときがあった。
もちろん、もとは秋の収穫を祝う、神に捧げるものが祭りなのですが、そういうのを忘れるぐらいの高揚というものがそこにはあって、でも神様はきっとそういう人たちの姿をみて、喜んでいるのだ思う。
今を生きている姿としての非日常があった。
今を生きているのに、非日常という言葉は、少し不思議な言い回しでしたね。
いつも今を生きている、その日常の中で、たまにある特別な日常という感じだろうか。
分かりづらいな笑
人は、一人でも魂や体を高揚させ、燃焼することができるが、多くの人が一つのことにエネルギーを向けるときのエネルギーは、また違った燃焼になる。
相互作用や相乗効果という感じかな。
そのエネルギーによって、その町そのものに命のエネルギーが宿っていた、そんなそうに思いました。