夜中のは独り言に続いて
気づいたこと
『許し』について、いくつか言葉が見て、感じたことを記しておきます。
『許し』は、誰かに与えるというよりも、自らに対するものが始まりのようです。
『許し』は、誰かを信じることであり、誰かを信じるということは、そもそも自分を信じていることによって成り立つもののようです。
自分を信じず、誰かを信ずるということは、依存に近い。自らの神ではなく、他者の神、外側にいりは神を頼るという感じでしょうか。
それが必要な時代もありましたが。
誰かを信ずることで、自らも信じることもあるように感じますが、自分を信じるというのが、実は先に作用しています。
自らを信じるという内側への作用によって、反作用としての誰かを信じるということが、反映される、作用と反作用の関係にあると言えそうです。
『許し』というのは、自らを信じるということの『勇気』から発露しているように思います。
その勇気は、『内側を開く』ということであり、『ハートを開く』ということです。
例えば、漫画の話ですが、ナウシカの命あるものは敵をも救おうとする姿が、それです。
そう、『全てに開かれている』ということです。
だから、多くの人は、その姿をみて私も『許される』と感じ、感化され、その純粋さの象徴であるナウシカを守ろうさえ思うのでしょう。
また、『開かれた』当人は自らは何者も裁くことできないことを知っています。
言葉にすると、神に繋がってはいても、ここでは神そのものではない。とか。相手もまた神であるということを知っているというのが、理由でしょう。
『許し』は、受け入れることとも同じように言われますが、それもまた『開かれている』ということによって、為される行為の一つと感じます。
そして、『開かれる』「開く」ために、これまでの多くの人類にとっては『勇気』が必要なのです。
禅の考案集である『無門関』に書かれているものは、おそらく全てこの『勇気』を灯すための矛盾ではないかと思われます。
あとは、この『許し』とか『受け入れる』『手放す』という言葉もだいぶ使い古されてきました。
それは、霊能者という言葉や癒されるという言葉が、少し昔の言葉のように感じるのと同じように、そういう時代を終えようとしているのかもしれません。
『開かれている』時期という見方もありますが、結局は自らが『開く』のかどうかというところに帰結します。
そして、『開いている』『開いていない』というYESとNOどちらかのみという両極端でもないというのも答えであり、幻想です。
本人が感じ、捉えた分だけ『開く』と言えます。
どうしたら良いというのは、私もよくわからないのですが笑
分からなければわからないを楽しめば、よいかと思います。
開いていきたいと思えば、そう願えばよいと思います。
昔からの『悟り』を得た人の視点を引用するなら、『開かれた人は、自らの何らかの信念を信じ、外側にある何かに尽している人』であるようです。
「多くの人のために、これがあったら!」とか
「この人のために、これをしよう!」とか
真っ直ぐにそう感じるとき、開かれているように思います。
これを武士道では、
『武士道と云うは、死ぬことと見つけたり』
という言葉で示されています。
自らの信じる君主のために尽くすということです。
日本人であれば、皆この経験をした遺伝子があるのですから、国が危機に貧すれば、血が自ずと『開いてくれる』ように思います。
ここでいう武士道とは、縄文古来からの日本人としての精神や神性を含めて言っています。
なんとか、言葉にできたように思います。
おやすみなさい