『自然』という言葉が気になりました。
「環境」のことを言っているのではなく、「状態」についての視点に近いです。
どちらも同じ『自然』なのですが。
肉体を持った人間が、『自然』な状態にいるのであれば、それは環境としての『自然』にも近いことが多いでしょう。
まあ、置いといて。
現代の社会、文明の中で生きていくと、人間はこの『自然』から離れる傾向にあります。それは、「環境」としても、「状態」としても。
これが、一種の分離というものだったのではないでしょうか。
もともと同じ『自然』から離れると、感情をもった人間としては、そこに対して戻りたいという反動を生じます。
もちろん、そういう感覚がわかる人も多いと思いますが、全体的には、そういう意識は消えてしまったように思います。
『自然』の環境の中にいれば、当たり前のように『癒し』を感じますが、それは、そちらにいた歴史の方が長いので遺伝子的に当たり前のことなのです。
慣れた環境の方が、当然安心します。
我々の肉体としての生命にとって、それが『自然』に近いと言えます。
かと言って、原始人に戻るか?という極論を唱えるのが、人間の悪いところですが、そこまで戻りたいでしょうか?そういう必要性があるのでしょうか?
そういう人がいてもいいですが、あまり現実的てない様に思います。
状態としての『自然』から離れた人間は、何を忘れたかというと、自らの肉体に対する感覚というものがあります。
体の変化には、必ず理由があります。
私自身のことでは、まだ根本的なところまで分かりませんが。
熱が出ること、鼻水が出ること、右手が痺れること、足が攣ること、お腹を壊すことなど。
これらは、全てバランスを取るために起こっています。
その人の体にとっての、歪みを歪みのままバランスを取るためです。
「歪み」は、悪いものではない様です。
その人にとっては、そういうものだというだけ。
心臓の位置、生殖器の位置、リンパの巡りは、対象になってはいません。
この位置の歪みは、正常とされるのに、心臓が真ん中にある人がなぜ、歪みとされてしまうのか。
それはただ多くの人が、左に寄っているからというだけのことで、真ん中にある人にとっては、それが普通ということです。
また、話がずれた。
体の中の臓器の微妙なズレ、骨格のズレが何故あるのかというのは、そのズレ、歪みによって動きの流れが生じるからではないかと思っています。
全てが対象で、キレイになっていたら逆に動きが生まれにくいように思います。
人は死ぬ時に、生前の骨格の歪みが全て整うとも言わ、れていますから。
歪みがあることによって、そこに過度に負担がかかったときに、その負担を受け流そうとして、そこから離れたところに痛みや痒みとして、症状が生じ、バランスをとっているのではないかと思います。
もし、歪みがないと、負担のかかるその一点で受けてしまい、負担が受け流れない、逃げ場がないと考えられます。
ですから、一般的には「病気」と言われる症状は、軽微なものであればあるほど、その都度バランスをとってくれているのでありがたいことでもあるのです。
病気をしたことがないという人には、二通りあり、本当に全く健康な人と、体が「自然」から離れすぎて機能せず麻痺して症状が出ない人がいます。
後者がほとんどだと思います。
熱が出ること、お腹を壊すこと、涙が出ること、背中が痛いこと、頭が痛いことも、「自然」の反応として起きていることであり、流れの一つなんだと思います。
この体の歪みを考えてみたとき、やはりバランスは常に動きながらとっていくものなんだと思いました。
そのバランスをとるというのは、精神が立つということも大事ですが、肉体が「自然」の状態に近づくことで、意識することなく、より症状がない方法でバランスをとるようになっていくのでしょうか。