両極端のような言葉が、届くことがあります。

その本質は同じことをしようとしているのですが、言葉を言葉として聴いてしまうと、人間部分では混乱してしまいます。


「やりたくないことはやらなくていい」

「とにかく忙しくきたのもをこなす」


やらのか、やらないのかどっちだろう〜

って思うのですが、そういうことありませんか?



ここからは、またまた自分なりにの解釈ですが。

これらの言葉は、何かを手放させようとしていると考えられます。

より自分の根源や無意識、ハイヤーにつながってくると、「やりたくないことはやらない」というのが、当たり前の実感として分かるから、「やりたくないことはやらなくていい」という言葉になるわけです。


逆に、なかなか自分の根源に繋がりにくい状態だと、「やりたいこと」がわからなかったり、誰かの「やりたいこと」をやりたいことと錯覚していたりします。
「やりたいこと」は、この「分からない」という状態を含めここにある今そのものなんですけどね。
人間のエゴとしては、「よく分からない」状態はあまり気持ちよくないから色々とエゴが外側に探してしまいます。

そういう人には「とにかく忙しくきたのもをこなそう」というしかないんですね。


今、ここにある出来事がこのさきに繋がっているのですから、今目の前にあるものが「自分」であるとも言えます。

それを「こなす」とは、「解決する」というより、じっくり「体験する」というのが、しっくりきます。


じっくり体験して、成功しても失敗してもやっぱ違うなぁってもそれでよいのでしょう。


これは、「やりたくないことはやらなくていい」ということを実行しても、同じことが起きる可能性があります。
「やりたくない」と宣言したのに、結局やることになっていたという現状がそれです。


何が言いたいかと言いますと。

やりたくないと避けようとしても、やることもあるし、きたものをやっていった結果、やらないことがあるということです。

この時、どちらを選択しても同じ出来事にあたることもあるし、当たらないこともあります。

全てが決まっていたらつまらないですから。
全てが決まっているわけではないようです。
決まっていることもあるし、決まってないこともある。


良かろうが悪かろうが、自分が選択して体験したということが大事なようです。




あと、最近わかったこと。

わかったけどまだうまくできないことでもあります。


『自らの内側に意識を向けること』と『自らの内側にエネルギーを向けること』は、違うということです。


何かが起きた時、外側の現象を現実的に眺め、対処しながら、内側に意識を向けることは大切なことです。

正確には、この「バランス」が大事なことです。

目に見えない世界と目に見える世界のということです。


内側に意識を向ける時、そこにエネルギーを向けてしまいがちなのですが、外側を『俯瞰』して「冷静」に対処するように、内側も「俯瞰」するだけでよいのです。


エネルギーを向けてしまうと、「バランス」崩れていき、「内部崩壊」のような状態になってしまいます。


自分の場合は、分かりやすく『体』に現れます。

わたしは内側にエネルギーを向けやすいので、「あれが分かった、これはこうなんだ」って分かってくると「もっと何かないのか?」と、内側へ意識とエネルギーを使ってしまいます。

そうすると「見えない世界の意識」が拡大していくのですが、『体』がそのエネルギーについていけないため、歪みが体にでます。

内側と外側の意識の拡大のバランスがとれていないようです。


そうすると最初の話に戻りますが、わたしの場合はいつも未知なものがくるので、目の前のそれをなんとかやっていくようです。