生きていると『器用』になってきます。
ここでいう『器用』とは、「経験からくる予測を現実と認識すること」と捉えているのですが…
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いつもの取り留めのない言葉遊びでございます。
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その『器用』は、人間的には「世渡りが上手い」「仕事が早い」ということであり、良いものされています。
これは、『便利』ということとも同じ現状と言える様に思います。
『便利』であることは、良いこととされています。
何か良いのか。
それは、「対象者の時間を短縮したり、思考を減らすこと」です。
それを他者の能力や物、原理、方法によって行うことを『便利』と言っています。
『器用』であることは、これを「自分」でやっているという風に私は捉えます。
では、なぜ人は、時間を短縮したり、思考を減らそうとするのだろうか?
こんなことを考えているわたしは、時間を無駄に使っているのでしょうか?
時間を短縮し思考を減らし続けるのが今の世の中であるとすると、自ら望んで思考を減らし続け、時間を短縮し続けることに、「思考」と「時間」を使っているとも言えないだろうか?
「短縮」し、「減らす」ことに、本当に価値はあるか?
時間を「短縮」と思考を「減らす」ことに、「時間」と「思考」を使ってきた結果、どこまでを尖り続けるその修行のような錬磨は、なに繋がっているのでしょう。
それは、「虚無」であるように思います。
『時間を「短縮」と思考を「減らす」ことに、「時間」と「思考」を使ってきた』というそのループは、無限に『0』に向かって収斂していきます。
「虚無」と言っても、無くなるというよりは、「思考停止」「無感情」になっていくように感じます。
「無振動」でもあるとも言えそうです。
時間を短縮したり、思考を減らすという動きは、宇宙の膨張としての作用であり、エントロピー(乱雑さ)の減少へ向かう方向であり、実は、大変なことではなく、当たり前なことで、物理的な流れとしては、放っておけば、そうなっていくものなのです。
人間は、ここ数十年で急激にその方向へむかっていました。
それは、物理的な『便利』や『器用』を突き詰めるという動きは、そういう流れが当たり前なので、そういうものを生み出そうとすれば、物理的なサポートを受けやすかったというふうに思います。
これを『宇宙の法則』の一つとして、分かってやっていた人もいたかもしれません。
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変な話になってきましたね笑笑
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人間は「虚無」へ向かってしまうのでしょうか。
そんなにバカではないと思いたいです。
思いたいとすると、何が人間なのかと捉えたいと私は、思います。
人間は、そんな簡単に『虚無』へは至らないとすると、少なくとも人間を人間たらしめているものというのは、「思考」だけが本体ではないように思います。
「思考」も人間の特有な要素ではありますが、こうした行動と矛盾するような「思考」をさせる『衝動』があるわけですから、そらは何なのかということです。
「感情」も人間特有な大切な要素です。
この『衝動』の「燃料」として「感情」も大切です。
この『衝動』の本体は、なんなのでしょう、ら
「これはおかしいんじゃないか?」と思わせるその「閃き」のような疑問をもたらす根源は、何なのだろうか。
『直観』『気づき』『ハートの声』『ハイアーセルフの声』『感じる』…人の数ほど答えはありそうです。
それらの『エネルギー』『振動』を捉えるものが何なのか。
それは、もちろん『私』が、話しているのですから、『私』ということ以外ないのですが。
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もう少し何か言葉で表現できないだろうか。
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わたしは、私が真理や真実を求めたり、言葉にしようと試みる行動そのものが、『私』であり、『根源』なのだと思います。
まだ、同じこと言って、近づいてない感じがするな。
何で真理(本当のこと)を求めるのか、その真理もまた『私』だからなのでしょう。
うーん、難しい。。
最後は、私がそう感じているということ以外ないのですが。
何でこういうことを書こうと思ったんだっけ笑笑
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『真理』や『根源』を言葉にしようとするときは、どうやっても「矛盾する言葉」になってしまう。
それは、言葉が『真理』や『根源』から生まれたものであり、それらの下位であるからだろう。
人間が、『真理』や『根源』を捉え表現するには、『音(歌、演奏)』『色(絵画)』『文字(詩、書)』
言葉そのもので明確に伝えることは難しいように思います。
これらの『音』『色』『文字』を支えるものは、その人自身であり、言葉にするとそれは私がどうあるかという『精神』なのだろうと思います。