『自分に集中する』
というのは、自分の意識が、相手やもののエネルギーに干渉し、認識したことで、現象化しているという視点から、その現象化したことを自分ごととして、俯瞰的に捉えるということ。
起きていることの原因や対処を考えることは、そのエネルギーに自ら合わせにいっているため、ずっと平行線となると言える。
解決したように見えても、その問題が生じている振動の根本が明らかになっていないことから、似たようなことは永遠と続くと言える。
根本を明らかにできるのは、他者ではなく、本人であり、本人が気付くしかない。
何かを解決しようとすることや誰かを救おうとすることは、不可能である。
もちろん助けたようにみえることも確かにあるが、それは、真に本人が気が付きたいと、もうやめたいと思ったところに、たまたま自分や誰かがいたに過ぎない。
本人が、その何かに気づこうとした心の奥から生じた意志が、縁のある自分や誰かをたまたま繋いだと言えよう。
本当は、出会っているとすれば、たまたまということはないが、『自分が助けたという傲慢さ』を持たないようあえて書いている。
誰かを救うことは、出来ない。
誰かを救うということは、相手の自由意志を奪うことにもなりなねない。
坂本龍一が、音楽で世界を救うということに違和感を感じていたというようなことを言っていたことにも似ている。
音楽は、戦争において、闘争心を高め、高揚させることにも利用されてきた。
私は音楽で人を癒したいというとき、場合によっては、相手の自由意志を奪い、洗脳することにも繋がるということも知っていることが重要である。
物事には、表がある限り、常に裏がある。
だから、それは使うものの意志に委ねられる。
見えない世界の法則を現代に現象化したのが、法律や科学であるから、これらの現状を見れば、分かりやすいことだろう。
悪い部分を知っているから、歯止めがきくし、やり過ぎないようにコントロールできる。
科学の表だけを見てきた科学者が、何を作りましたか。
法律の裏だけを見てきた法律家が、どれだけ物事を複雑にしてしまったか。
疑うということではなく、物事とはそういうものであるから、存在しているということをそのまま眺める。受け入れる。ただ、それだけで良いのだ。
では、我々は他者に関わり、影響を与えることができないのかというとそうではない。
実際に肉体レベルでは、触れ合うこともできる。
その相手の本質、根本に作用することができるかと言われれば、作用することもできる。
ここでいう誰かを救うことができないという言葉は、「自由意志」が最優先とされているという言葉の裏返しに過ぎない。
これが、裏と表。
実際には、人は他者との触れないの中で、様々な体験して、気づいていけるようになっている。
勝手に気づいていくのである。気づくまで。
そのまたまた相手に作用する方法…?
と言っていいのか分からないが、それを言葉にするとすれば、
「祈り」「感化」というものであるように思う。
これらの行為や意志は、両極端であるように見えるが、その根本は同じ個人の自由意志から生じるという共通点をもつ。
「祈り」は、「真に誰かのために祈る」ということであり、その結果を相手や周りに求めないということ。
自分が最後の1人になってもそう信じて、願うということ。
他方、「感化」は、「自らの信念ある行動を取り続ける」ということ、こちらも相手や周りにその結果を求めないばかりか、自分に対しても求めないということ。
自分が最後の1人になってもただそう信じて、願うということ。
どちらも他者に届くことが、約束されたものではない。
ただ、そう思ったらそう意志を通すというだけ。
届くことが約束されていないからこそ、信じるということができ、その過程にこそ、自己固有の価値が生じる。
いずれも、相手のためにやるというよりは、実は、自らの信念、生き方のためにやるというのが、本当だろう。
その結果として、他者に作用することもあるかもしれないというだけ。
「祈り」や「感化」は、上に向けて祈る、他者に向けて感化するのではなく、「自らの信念、誰かのために祈るという信念、誰に言われようとこれをやるという信念」を持って、内側に向かうことであり、一見対象が外にあったとしても、向かうのは内側にしかない。
それは、自己存在の中心であり、体の中心である始まりの場所への圧縮とも言える。
自らの宇宙の中心、ゼロポイントへ向かうことが、圧縮であり、そこに軸としての信念、〇〇ために祈る、〇〇をやるという信念によって、軸が立ち、自らの宇宙、魂のエネルギーが回り始める。
「祈り」や「感化」が、結果成就することがあったとすれば、それは自らの宇宙、ゼロポイント、無点を通して、相手の宇宙と繋がったと捉えることができる。
内側に向かっていくと、外側に繋がるというのは、妙な話ですが、0に向かっていくとき、それは永遠♾であり、その姿、全体で1であるので
表と裏、内と外、0と1、無と有。
全て一体である。
そうすると相手はどこにいるのか。
どこにでもいるし、どこにでもいない。
言葉にするとこうなってしまうが…
しかしながら、「祈り」や「感化」をどれだけ受け取れるかは、相手次第であり、こちらには分からない。
そうなっているようなか見えても、伝わっていないかもしれない。
「自分に集中する」というときに、気をつけるべきは、物理的な視点で見ないことだろう。
自分の病気や怪我、仕事、家族、お金に集中すると、物質のエネルギーに集中=執着することになる。
それは、あまり本質ではない。
その物理的なものの奥にある自分ごとに気がつくかというのが、肝になる。
さらに、気をつけるべきは
もう少し高度というか、スピリチュアルなことを知っていくと、物理的な執着と同じことが起きてくる。
もちろん自分より知識がある人から教えてもらうのは、悪いことではない。
悪いことではないのですが、それは、その人が信じていることに過ぎない。
もう少し言うと、その人が作り出し、認識している次元の話に過ぎない。
昨日観た虹が、誰かと同じ意味であるとは、限らない。また、意味なんてない。
ただ素晴らしい今という景色を体感したということ。
解釈は、自分なりでよい。感じたままに。
これしかない。
また、「自分に集中する」と、偏った考えになってしまい、間違えてしまうのではないかという「迷い」が生じることがある。
その「迷い」とは、うまくやろうとか、恥をかきたくないもか、他人からどう見られるだろうという基準から生じることが、ほとんどであり、「悩み」とは、実は異なる。
要は、自らの信念がなく、楽な方に行きたいという欲があるときは、それは「悩み」ではなく、単なる「迷い」となる。
「自分に集中する」という行為は、ある意味自分しか信じていない自分を実行することでもあるので、正しくても自分だし、間違えても自分であるし、当然偏っていて当たり前のことと言える。
偏っていることが、信念ということもできる。
信念があると言うとカッコいいが、ある人から見れば、狂っている、狂信とも同義といえる。
盲信との違いは、見つめているかいないかの違い、狂信は、狂っていると見られることもわかっていて信じているが、盲信は、自分が見えていない。俯瞰的視点がない。
また、「悩み」は、信念を通すときに生じるもので、「信念」を立てる、軸を立てるから生じるもののように感じる。
「信念」を立てても、直ぐにできないから悩むのである。立ててしまった人は、その苦悩を苦悩と感じないかもしれない。それが当たり前で、どちらを選んでも責任をとる覚悟が既にあるから。
直ぐにできないというのは、物理的な要因、人的要因、時間的な要因からなる。
物も人も時間も限られているのが、三次元であるので、その中で、「信念」を実行しようとすると、「悩む」ことになる。
仕事に時間を使えば、家族との時間は、相対的に減る。
家族一緒にいれば、友達との時間は、相対的に減る。
どちらかを優先すれば、どちらかを劣後させることになる。
しかしながら、親が仕事ばかりでも子がよく育つこともあるように、時間をかけることが必ずしも良いこととは、限らない。
これは、時間当たりの「密度」によるもののように思う。
「悩み」は、「自らに集中する」ことになり、自らの中心に圧縮を生む。
そこは「密度」が濃くなる。
その密度とは、「思い」であり、「エネルギー」であり、「振動」となる。
会いたい、会いたいという思いで、会えないときは、会いたいというエネルギーが圧縮される、会えたときのそのエネルギーはすごいだろう。
その圧縮は、実は離れていても通じているのですが、三次元的な隔たりがあることで、そういう思いも醸成していると言える。
結果、会えなくともその思いは、そこにあるし、価値はある。
先ほどの「感化」や「祈り」に繋がるが、その「思い」は、ときに「感化」や「祈り」のように伝わる。
外側に向かうと「圧縮」できないのか。
というと、できない。
外側に中心はないからである。
内側に向かうと、外側に伝わるのは、引力と斥力の関係と同じで、中心に向かうから、斥力(外側に向かう力)が生じる。
外側には、中心がないから、どこまで行っても分散するだけ。
この概念は、惑星でも、原子でも同じ様に思うので。
引力があるから斥力があり、惑星は存在する。
原子で言えば、電子の非局在化に近い。
陽子中性子の周りにある電子の分布濃度や広さは、他の原子との反応性の高さに影響する。
非局在化とは、分散に近い。
分散していることで、他との反応性の頻度は高くなるが、その反応は緩やかな結合という風なのがあってある気がする。
エネルギー的には、局在化している方が密度が高くて、安定している。
しかしながら、その密度があり安定した物同士の衝突は、もの凄いエネルギーを生じる。
不安定なものを分離するエネルギーと安定しているものを分離するエネルギーどちらがたやすいか、想像してみると分かりやすい。
科学的には、一見反応性が高いということは、魅力の様にも聴こえるが、反応性が高いということは、不安定であるということでもあり、その反応性の高さが、有害にもなり得る。
これもまた裏と表。
繋がりやすいということは、受けやすいし、渡しやすいとも言える。
また、反応性が高いとエネルギーが高いも別である。
もともとの持っている電子の量が、1の人の非局在化の状態と10の人の非局在化の状態は、違う。
10の人のほうが、半径が広いイメージ。
どちらも反応がしやすい非局在化の状態であるが、電子の量=エネルギーが高い人のほうが、もっと広くなるのでコントロールは大変。
ここに人間の意志が反映されていくとどうなるか。
この原子や中性子の質量というか、その中でも回転している最小単位の存在が、加速する。
そうすると、原子や中性子の密度が濃くなり、重くなる。
引力が強くなり、周りにある電子を引きつけるチカラが強くなる。
同時に斥力も強くなるので、電子は、安定化し始める。
このとき、おそらく外側から何らかのエネルギーを吸収して、エネルギー=電子みたいなものを集めているように思う。
そうすると、さっきの話で言えば、半径を維持したまま密度を上げるようなことが起きていると考えられる。
密度を変えるということは、物質を作り替えているとも言える。