人は観たいもの観ている。
観ているんだけど、観ようとしない。
そういうことがある。
おうおうにして、それが本人の運命だったりする。
そこに理屈をつけようとすれば、つけられるが。
それも一面にすぎない。
運命という名称もまたその一面である。
そんなものないと認識すれば、そんなものはない。
でも、ないと認識しようとしている自分は、本当にそう思っているのかといえば、その一部が現象として既に認識されているのであれば、そういうことだろう。
起こってしまったことを避けるということも、パラレルワールドを変えれば、可能であるが。
避けなかった世界はどうなるものか。
そういう世界もあるわけで、今の私の意識は、そこにないということにすぎない。
そこにもあったのだ。
それは、観ようとして観ているのに、観えているときと観えていないときの違いに似ている。
やはり、同時に起きているのだ。
同じ世界にいながら、観えたり観えなかったりする。
それを可能にするのは、だって自分。
スピリチュアルだった人が、そうでなくなる現象が起きているように思う。
それがどうやらアセンションの正体ではないだろうか。
他の人から見て、それは落ちているようにも思うかもしれないが、「落ちていく」という言葉は、スピリチュアルな人の言葉で、当人にとっては、どうでもよいのだ。
当人は、あるパラレルワールドからは消えたと言える。
さらにいうと「落ちていく」状態は、よい悪いではない。
「落ちていく」というのは、目の錯覚で上も下もないというのが、本当のところであるので、「落ちる」ことなどできない。
言葉遊びのようで、その通りでもあり、伝わる人には伝わることだろう。
問題があるとするなら、「下」などないのに「落ちている」と認識し続けることですが、まあ、その「し続ける」ことも一瞬ですから、大したことない。
理解することのきっかけでしかない。
どこまでいっても、自分のためにしかない。
さあ、正しさはどこにあるでしょう。
答えはいつも自分のハートの奥です。
全てを覚悟したときに繋がる無限の可能性。
答えは常に未完です。