たった今そういう言葉の連続がありました。

分かるようで分からない言葉で、当たり前な人にとっては、既にやっていることで、こう言葉にするとよく分からないと言われそうなことなんですが。





「内側にある心が、外側に反映されているから」

という言葉では、飛躍されすぎてしまっていて、分かりづらいから。

もう少し言葉にできればなぁと思いながら、書いているところです。


もう一度、問うてみます。


「内側に向かうと、外側がわかるとは?、これ如何に?」



様々な社会的な現象によって、物理的に動けなくなってくると、人はどうなるか、人それぞれでそれでも外に行く人もいるし、仕事する人もいるし、何もしない人もいますが、少なくとも「あまり動くのはどうなんだろうか?」というプレッシャーを感じながらの行動になっていることだろうとおもいます。

そうすると、何が起こるかというと、いつもの行動に意識的になるという現象が起きます。

いつも電車に乗って仕事場に行っていたとすると、今行っていいのかなぁとか、最近電車に乗っていないなぁとか、よく毎日満員電車乗っていたなぁとか、立ち止まるというか、一手余分に考えることが多くなります。

これは、外側の現象を見ているのですが、内側のこれまでの自分に問いかけているわけです。

これが、内側に向かうということ。

今日は一日家出なかったなぁ、今までどうだっけ?、あれ、わざわざ会いに行っていたけど、電話でもなんとかなるじゃん笑とか。そういう比較的手前にいる自分を振り返る作業を周りの現象を通して行っていることでしょう。

そうして、またしばらくすると。


家族が毎日近くにいる。遠い家族から頻繁に連絡がくる。久しぶりに大学の友人から連絡があったりと。

そういう現象が起きる。



その時、その相手がどういう感情であなたに言葉をかけてくるでしょうか。

早く逃げなさい、大人しくしてなさい、という命令のような言葉ですか?

ご飯は大丈夫?ご家族に連絡してねと、人を気遣う言葉でしょうか?

当然、不安も優しさも、両方が表現されていることでしょう。


その特定の近い人たちからの言葉をどう感じるのかというのが、これまた内側に向かうということにもなります。

これが、多くの人が内側が外側に現象となっていると言っていることの一つですが。


現象は、現象でしかないのです。

それをどう感じるか、感じたかの違いで、その瞬間に私のものになります。
(始めから私のものなんですが、ここではそういう表現にしています)

もう少しいうと、その人が私のために表現してくれたどの場面や言葉を切り取った=印象として残ったか、それが私(の内側)を映し出しているということです。


この人は、不安を煽るなぁと思えば、今私は不安を感じているんだと認識すればいいんです。

その人は、本当に不安しか煽ってませんか?そんな人本当にいると思いますか?その人にも家族がいて、仕事があったり、恋人がいたりします。たまたまそうだったです。私の前では。私の記憶では。


内側に向かう意識とは、逆説的ですが、自分の近くに起きていることを自分ごととして認識すること、それすなわち、外側が分かるということです。

内側と外側も、一つのコイン。

同じ事実で現象なんですね。


だから、内側に向かい、その深さに、自分に気がつくと、その分だけ、外側にある自分の存在というか、意識が広がることになります。

これを重層構造、螺旋構造と言う人もいますね。


言葉にすると、外側を見て、内側を観て、外側が観られるようになる。

意識の拡張って、この繰り返しなんだと思います。拡張しなくてもいいんですが。


だから、当たり前な人にとっては、この言葉の意味は分かりにくいと思います。

だって、そういう人にとっては内側と外側が上層構造になっていないから、内側も外側も一つのコインであるということを体感で知っているから。

けど、体感で分からない人は、自分なりの解釈で気づいていく他ないんだろうと思います。

というか、気づいていけるんで大丈夫です。




大丈夫しか言ってくれない私のハイヤーさんより笑



追記


内側と外側が、一つであるという現象は、物理学の現在でいうところの『膜』の理論にも通じるものがあるように思いました。

膜って、どっちが内側か外側かが、一瞬で裏返ってますし、それで一つですから。

自分だと思っていたものが、自分じゃなかったという経験がある人もいるでしょうし。

まさかこれが、自分ってかがみ観てふと気づく人もいるでしょう。

何が自分であるかというのは、紙一重の膜なんでしょうね。