続きです。


自由意志による選択を分けるとしたら、大きくハイヤーによるもの、エゴによるものがある。

その選択とは、『常に今私がどのように認識するか。』

ということに尽きる。

つまり、どちらの行動がとか、どちらの考えがということではない。


行動や考えが、どちらであってもハイヤーの視点で認識できるとすれば、そこでしか見られない景色に出会う。

それは、選ばなかったもう片方に行ったとしても違った形で出会える、気付けると言える。

動いても良いし、動かなくても良い。



すると、『ハイヤーの流れ』とは、なんなのだろうか。
どこに行こうが、その流れなるものがあるとするなら、それはどこへ流れているのか。

私は、その流れとは、根拠なく気づいているか、認識しているかというもので、全ての人が流れの中にいると感じる。

その流れに方向をつけるとするなら、未来から来るものを捉え、未来へ向かうということだろう。

未来から来るものを捉えるのは、自らの空白、ゼロポイント、中庸によって入ってくる未来のカケラに触れるような感じではないだろうか。


現在が未来へ触れるというのは、現在と過去が分離している3次元では非常に困難。

現在が過去と繋がる、重なるように認識できると、同時に未来に触れられるようになると感じる。

3次元的に言えば、過去が現在に重なるから、未来も重なり、本当の意味で『今』に集約されると言える。


根拠なく感覚的に認識できるのであれば、今すぐに可能だろう。

その感覚は、それぞれに固有であり、教えたりすることはできない、できないが、感覚的に伝える方法はある。

それは、物理的に相手のフィールド、ゼロポイントに入ることだ。

周波数が近ければ会えるだろうし、なんとなく気付いていくだろう。

この物理的というのは、相手の物であっても有効のように思う。






ハイヤーの流れは、今ここにある。

自由意志はその流れの中にある。

エゴもまた同様である。


肉体を持っている限り、エゴを切り離すことも置いていくことも、説得する必要もない。そもそもそういうものではない。