最近、混沌の記事を書いた後、マドモアゼル愛先生の動画をみたら、老荘の話をされていて、『混沌』が、どこから生まれた言葉なのか、話をされていました。


『混沌』は、空想上の物語の人物の名前だそうです。


『混沌』というのっぴらぼうの人間がいて、周りの人が可哀想だということで、目や耳や鼻、口などをつけてあげたところ、七日目に死んでしまったという話です。


ここに何を感じますか?


私が思ったことは、やっぱり思っていた通りだなぁということでした。

『混沌』は、世間一般によって『複雑』な姿にされ、その本質が分からなくされてしまった存在であり、でもその本質はとてもシンプル過ぎて、人間には理解できない、そういったもの

『混沌』は、世間一般によって作られて、すぐ近くにいるのに、見ないようにされているがために、死んだ扱いになっているようにも感じます。


世間の怖さというものも表現されていますね。


昔読んだ『魔王』という漫画、小説の中でも描かれています。


『魔王』の正体が、こいつか、こいつか、こいつかと動いていく。


一番怖いのは、いつも人間なのだということが分かります。

それも『悪意のない凡人』が、一番まずい。


『悪意のある天才、凡人』というのは、自らの悪意を認識しているため、その責任を背負っていると言える、その中で天才は、もう手がつけられないというか、それが悪意を持って行われていたのかどうかも、凡人には分からないぐらいいつのまにかそういうことになっています。

また、悪意のある凡人は、周りの人に悟られるため、余り大きなことは出来ないですが、少なくとも自らの生命に責任を持って生きているという点で私は好きです。


悪意のない天才は、いわゆる天然ですので、作為的なことは出来ないが、発明やひらめきによって、文明を大きく変えるきっかけを作る存在と言えます。

そう、悪意とは、作為的なのです。その行為の結果をわかっていてもやるわけですから、悪なのです。自らの大義のために、起きうる被害を知っていて、その先の成果を目指すともいえます。
だから、悪なのです。


で、『悪意のない凡人』は、いわゆる世間一般、民衆と呼ばれる人々です。

分かりやすくいうと「悪気はなかったんだ…」「あなたのために良かれと思って…」と本気で思っている人のことです。

この言葉が出たとき、守っているのは常に『自分』です。自分勝手に思い、振舞い、挙げ句の果てに私は悪くないという、自分の一連の行動にすら無自覚な人です。


『悪意のない凡人』は、とても良い人に見えて、残酷です。その時の流行で、集まり、同じ言葉を重ねます。


『悪意のない凡人』達こそが、『魔王』だったのではないかと私は感じました。


その本を読んだ時、せめて自分は『悪意のある凡人』になろうと思ったのを思い出しました。


世間において『悪い』とされることを『悪い』と分かってやる、言うということです。


ここでいう『悪い』とは、芥川龍之介が言っていた「危険思想」の概念に近い。

危険思想とは、常識を実行に移そうとする思想

のことで、『常識を常識と認識した上でそれを実行に移す』というのは、『悪いことを悪いと認識して実行する』ことも含みます。

常識とは、こうしたらこうなるとみんなわかっていることであるからこそ、常識なわけで実行には至らないのことも多い、それを実行するということは、その実行の『悪』を引き受ける覚悟が必要となります。これを『必要悪』というものの本質。

それを実行できないその他大勢から見たときは、危険思想だということです。



人間には、体を持って記憶を消して生まれた限り、『混沌』の本質を真に理解することは出来ないので、その複雑な『混沌』となってしまったものに対して『悪』という覚悟をもって突き進む以外ないとも言えます。


これは、地に足をつけた地球人側からの視点の一つです。