先程、10年越しに観たかったバンドのライブを観てきた、その帰りに記事を書いています。
何というタイミングか、そのバンドのデビューしたライブハウスがなくなるということでのワンマンライブでした。
演奏を聴きながら、かつて観てきたバンドのライブや演者の姿、演奏、声、メロディー、そういう全部を思い出していました。
東京に出てきた2014年、私が愛したバンドのほとんどは解散、活動休止状態で、何でもっと早く東京来られなかったのかなと思っていました。
今日観たバンドも12年前に知っていて、とても綺麗なメロディーと演奏と声が印象的で聴いてみたいと思っていたのですが、今度は仕事に追われてライブハウスに行くことから遠退いていました。
毎度のことながら、もっと早く観に行けば良かったと思いました。
タイトルから遠のいていくかもなんですが、感じたことを言葉に落とし込みたいと思います。
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まずは、『日本人の文学性を体現しているのは、日本のインディーズバンドなんじゃないか』と思いました。
あってもなくてもいいもので、かつ、世間一般には価値のないものに対して、自分の信念を貫こうとする姿は、とても破滅性を孕んでいる。
他の芸術と一線を画すのは、世間一般に不特定多数の人にとっても価値がないという点とロックの原初の思想、王道ではないという本質、不良という点です。
私は、文学のなんたるかは知らないが、ただ直観的に、文学が、文学として世間一般に価値を認められる前、例えば三島由紀夫が筆を取り始めた頃というのは、そういう扱いだったのではないかと思いました。物書きなんぞになってという世間的な価値。
芸術が、芸術とされる前もまた同様なのかもしれません。
だから、世間を生きている人は、そんなもので悩やまんでもしょうがないでしょと思ってしまう。
でも、彼らが扱っているものは、『生命』そのものであり、『人間とは、何なのか?』という永遠の問いであり、最も崇高なものでした。
しかも、日本特有の気質を色濃く反映されたものが、『文学』だと感じます。
日本のインディーズバンドの全てがそうだとは言いませんが、全国でツアーされているようなバンドにおいては、特に自己との歪み、葛藤を抱きながら、破壊と再生を繰り返しながら、続けているバンドもいます。鬱症状寸前の精神状態。
何度も言いますが、世間一般的には全くと言っていいほど、価値がないものに死ぬほど悩んでいるのです。
その姿を思ったとき、『日本の文学性を引き継いでいるものがあるとすれば、それは日本のインディーズバンドだ』と私は感じました。
同時にバンドが売れてしまうと、興味、関心が薄くなるというものの現象についても、この辺りに理由があるような気がします。
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次、『運命の逆説性』
人生を生きていると様々なことが起こります。
その時、人は何かしらの経験と智慧を得ることがあります。
そうした時というのは、大体にしてなぜ、そのようなことが起きたのか?ということについて、一種の閃き、人によっては、気づきが起きます。
そこには、その人だけがわかる論理性、いわゆる因果に気がつくのです。
これは、大体、逆説的なものです。
自分が到達したいと思っていたことに気づいたとき、過去の失敗や嫌なことがあったことにも気づく。
自分の生命にとって、大切なことが失敗があって、気づくという逆説でやってくるのです。
そうして、その気づいた大切なことを深めていくのですが、そうしてさらに気づいていくこともあります。
その気づいたこと(自分にとって大切なことや失敗、嫌なこと)を深めていった先に何があるのかということについて、さらに逆説性というか。
思わぬ結論(これも一時的なものです)に辿り着きます。
その深めたものを知って、理解した上で、使わないということです。
また、その嫌なもの、失敗したことに向かっていくということです。
これは、言葉だけ聞くと嫌だなぁと思うのですが、気づいて、理解して、深めて、それを使わない、または向かっていくということに気づくと、これまでの嫌だったものにも比較的対応できるようになります。それが嫌だったということに気づきすらしなくなるかもしれません。この辺が言葉にすることの限界を感じます。
本当はステージなどないのですが、ステージが上がったという表現が分かりやすいと思います。
それまでの自分を今までよりもさらに俯瞰して見ているような感じです。
運命の逆説性を感じるとき、それはスムーズな変化にあると感じます。
バンドの演奏を聴きながら、『逆説性』ということを強く感じました。