運命として、目の前に現れたものに対してどのような反応をするかは、人それぞれです。
逃げるもの、誤魔化すもの、気づかないふりをするもの、通り過ぎるもの、自ら向かうもの、戦うもの、受け入れるもの。
そのどれもが正しくそして間違いでもあります。
常に。
悪かろうが良かろうが、それが自分固有の運命でしかないのです。
受け入れろと言われて、受け入れなくてもいいのです。それは、自分が決めることです。
上司や偉い人から言われると、なんだかもやもやしますよね。
中には、コントロールしようとして言っている人もいるので、そんなのは無視です。
その言葉や運命が重いと感じても、そういう見方もあるのか、そうなるかもしれないねという、一つの可能性に留めるというのもありかと思います。
気付いたら、そうなっているというのが、本来の運命です。
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最近は特に「言葉」を発することが、しにくくなりました。
自分の意思を表明するのが、嫌とかそういうことではなく、簡単な質問一つ、なぜか言葉が出てこない。
その理由の一つに、論理的な思考と会話より、そこから得るイメージで理解しようとするようになったような気がします。
特に、人間が対話するときは、言葉そのもの、会話そのものよりも、体の動き、目の動き、声の調子、表情の方が本当のことを言っています。
もちろん会話もそうで、話を逸らせば、それについて知らない、分かっていない、言いたくないというのは、分かってしまいます。誰でもわかりますね。
メールや手紙などの文章は、その構成を考えながら書く内容限定し、かつ論理的にまとめられ、最後の結論まで決まっているので、なるほどとしか思えない。
もちろん、その「なるほど」の中には、あーこの人は法律わかってないなとか、論理的な思考ができないということも含めてです。
受け取る側も相手に対する印象を決定付けてしまいます。
しかし、文章の特に手紙においては、直筆であれば、そこから読み取れるものもあります。
字が整っているかどうか、というのは、その人の心の状態とも言えます。
真剣に書けば、一文字一文字は歪んだ下手なものでも、文字の並びは整うものです。
歴史上の人物の書を見ていると、それぞれ違うし、決して綺麗とは言えないような読めない文字でさえも、なぜかかっこよく見えます。
活字であるものから、相手を感じるというのは、簡単と言えば簡単ですが、難しいと言えば難しいと思います。
活字の中で、相手を感じるとき、というのは、相手が自ら勝ち取った、選び取った「言葉」をどれだけ持っているかということに尽きると思います。
冒頭の「運命」という言葉を定義するにしても、本来はその捉え方がみんな違うのです。
ある人は、「苦労」こそ「運命」といい、またある人は「幸福」こそ「運命」といいます。
そうすると、今度はそのひとの「苦労」や「幸福」の捉え方が違ったりします。
けれど、それぞれの事実を見たとき、その事実が意外にも同じことだったりして、例えば「医者の仕事をする」ということだったりします。
そういう経験や読書からくる経験の擬似体験を付加した言葉が、「己の言葉」になり、その人の固有のものになります。
固有の言葉を持てば、文章は固有の文章になります。
当然、伝わらない人と伝わる人がでてきます。
でも、ここでとても大事なことは、読んで分からなくても伝わる人もいるということです。
この場合、伝わらない人とはその多くがその文章に出会えない人と言い換えることができると思います。
これは、どういう本や書に出会うかということも「運命」と言えるからです。
出会っていれば、必ずわかる素養を持っていると言えます。その運命を受けた上で、捨てるのか、持っていくのかという違いだけです。
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相手のことについて、口を出すということをよく考えるようになったことも大きいかもしれないです。
わたしが例え断定的に言ったことを、全部本気にしないで、一つのメッセージとして受けとってもらえる人には、今こう思ったことをそのまま伝えることはありますが、
一般的には、反発というか誤解を生じやすいこともあるし、また逆に相手の意思を誘導してしまう恐れもあるように感じるようになりました。
地球の波動の粗い大昔の偉い人が、口を閉ざした理由は、この辺りにあるように思います。
今であれば、気づき始めたひとに合わせることで、伝えられることは多いように思いますが。
そう言った意味で、周りにどうこうするよりは、よく言われることですが、自らの中を整える、中庸、ゼロポイントに置くということを意識するのが良いように感じます。
何かを伝えるときは、あくまで「私はこう感じた」「私ならこうする」というのが、大事ですね。
まあ、私が私の過去に向かって話しているようなものなので、私をどうこうする以外のことはできないんですが。