何もしていないと、何かをしようとする衝動は、誰かを求める。
その誰かから得られるものは、私だったものであり、不足を埋めるものではない。
それでもその衝動は、求める。
誰かが述べた私は、私のものであるが、私だったものと同一ではない。
そこにズレを感じ、(形式的な)「違い」を見てしまう。
誰もが同じことを違うように伝えている。
当たり前のことだが、今世での固有の経験があるので、言葉じりは変化するし、言葉にする度に捉えきれないなにものかが零れ落ちる。
本質に近ければ近いほど、難しいことだろう。
宇宙人から観た私と、地球人から観た私は違うということも、その一つ。
どちらも目に見えない世界を捉えて頂いているのですが。
私にある側面を宇宙人から見れば、地球よりどこどこの星の影響を強く受けている。
地球人から見れば、それは悟りや天に近いという表現になってしまう。
地球経験の多い覚醒した宇宙人から観たらどうだろう。
その両方の意味が分かるに違いない。
けど、地球での縁同様、宇宙での縁もある。
その方との縁が、どこどこ星によるものが強ければ、私の性質は、その星が強いということになりやすいと感じる。
宇宙全てをくまなく経験した方が、今地球に顕現していることは、とてつもなく稀であると思うので、必ず偏りがあると考えられる。
自分の経験したことは、多く語れるが、知識だけのものや経験が少ないものはよく分からない、その周波数が分からないこともあるだろうと思う。
もちろん、根元に近いところにいる人ほど、その周波数を感じられるので、その人の後ろに多くの何かを見ることはできるような気がする。
何が言いたいかというと。
この世で言葉として表現されるものは内容が高次元であっても、物事の一面に過ぎないということ。
他人よるものは、常にそうである。
そうであるが、それも自分である、自分の一面であるということにとどめておくことが肝要であると感じる。
そして、その言葉を聞いた時の自分の感覚の方が大事なのだろう。
その言葉が違うのではなく、その方の言葉より自分の感性で捉えている自分の方が大きい場合、当然違和感を感じる。または、開いていない場合は、扉を開く鍵となる可能性もあるだろう。
それは、それでいいと思う。
どの側面もそれはそれとして、自分だとして留めておけば、その点や面は繋がっていくように思う。
嫌だったものも反転することもある。
…
言葉によって、整理され、自らがしていたことに気がつく。
悪いことなど何ひとつないのだが。
人は何かで埋めようとして、動こうとする。
その動きは、本質から目を逸らす口実となる。
…
本質が大事だと思うのは、私の意志。