2020年1月から新たな世界が始まる。

33年間の現世的な人生の終了。

11ヶ月の休息と入り口の探求の終了。

今はまだ全てが必要だったとまでは言えない。

未完なものばかりで点で終わっているものも多い。

休息の日々は、その幾ばくかの点と新たな点とのメインどころが繋がる出会いと出来事でした。

自らが憧れ、還るところ、またはやり遂げようとしているものの輪郭程度はぼんやりと捉えられたように思う。


これからどうしたら良いか?という問いは、

「くるものに向かうだけだ」

という、至極簡単で一見諦めにも似た言葉に収斂される。


これは、諦めているわけでも、投げ出しているわけでもなく、あえて言うなら、「悩む」ということ、「良くなりたい、怪我したくない」という気持ちを諦めてたのであって、今や未来へ対する希望、「何がくるかな、何がくるかな」というワクワクは持っているし、そこに私の自我としての意図は入れないようにしている。


我々には「今」しかない。


その「今」において間違えることがあっても生きていれば、挽回はできないが、それが後々の運命の受け入れ方としての自らの軸を作る。
そう言った意味では、間違いはないとも言える。


偉そうなことを書いても、エゴは騒ぎ立てる。

ありえないような偶然な必然に喜ぶこともある。
それは、それでいいのだ。

どんなに偉そうなこと言っていたとしても、何がくるかは分からない。
どんな嫌いな人であったとしても、亡くなったら泣くなもしれない。そうなってみたいと分からない。そのとき、みっともない姿になるのかもしれない。それはそれだということ。


ただ自らを奮い立たせる言葉に出会い、その言葉を紡ぎ、述べ、来たるべきものに打つかる他ない。

それが人間なのだと思う。


いつもいつも考えは、ここに収斂してきた。

もちろん、できうる限り考えることは大事でこれまでの自分を持ってして、打つかるのは当然。

この考えが良い悪いというのは後の人が勝手に評価することであって、私が「今」の基準らしきもので測ってみても意味がない。

その刀は、鋭さを鈍らせることだろう。


人生は分からない。

分からないから意味がある。