松下幸之助の「素直」という言葉を拝見する機会がありました。
ありのままをを観るという事だそうです。
とてもシンプルなことなのですが、ほとんどの人には我があるので、自分の思い込みで観てしまいます。
そうすると、その物事でどうやって儲けようか?とか、どうやって利用しようか?とか。
そうすると、見たいものしか見えない。つまりは、その他の可能性を消してしまうということになるということです。
なんか、最近書いていることは、全部量子論的な「認識」の話になってしまうなぁ…
この松下幸之助の書を拝見した時、すぐよぎったのは、飯塚毅の「直観」という言葉でした。
この「直観」もまた全てをそのまま、ありのままを観るという考えだったのを思い出しました。
一部を見て、全てを把握するということに近いです。
人相や手相もまた、この「素直」や「直観」の副作用のように思います。
どちらも「直」という言葉が、含まれているのも興味深いですが、松下幸之助の書の説明にも、ありのままを「観る」というように「観」を使っていることも、印象的でした。
「直」とは、「すぐ」→瞬間に近いイメージがします。
「直」に「観た」瞬間にそのまま丸ごと理解するというのが、「素直」とも言えるような気がします。
「観る」というのは、般若心経の中でも「観」と「見」を分けている。
般若心経の本質は、音と響きにあるのですが、天竺から持ち帰った書物を漢字に纏めたものでもあるので、漢字にも意味は込められています。
そうすると、当然「観」と「見」も意味が違うと言えよう。
「直観」「直感」「直勘」の違いの中でも、記事にしたことがありますが、「直観」は、本質を見通すという意味だと感じています。外側も内側もという感じです。
それは、まさに「素直」にありのままを観るということと近いと思いました。
で。
この「素直」や「直観」を大切にした2人の共通点は何か…
それは、信仰心からくる禅的な悟りに近い境地にいたということです。
「我」や「エゴ」がないのです。
そもそもの信念に「儲けよう」だとか、「偉くなりたい」だとか、というものがない。
もしかしたら、元々はあったのかもしれませんが、もっと大事なことに気がついたとき、それが「素直」や「直観」という穏やかで、水面ではあるが波が立たないかのような境地、つまり何ものにも捉われない、執着しない境地に至ることの大切さを言葉として残したのでしょう。
そんなことを勝手に思いました。