最近のテーマは、芸術と量子力学にある。

芸術については、言葉としては子供の頃から知っていたが、その「芸術」という言葉が、敷居を高くしていたと今思うと感じる。

子供の頃から絵を描き、書を書き、陶器を作ったりしていた。つまりは、芸術の端っこあたりをうろちょろしていたわけだ。

けど、芸術が美術館にあるものという認識になっていったと同時に、縁のないものに変わっていったように思う。


言葉や建物は、その枠に収まるものが何なのかということをメディアによって、または教育によって、定義づけられることによって、個人の体験から切り離され、何かとんでもなく遠く、わかりにくいものに変わってしまう。


先ほど言ったように、子供のときから芸術の端に触れているし、芸術というもの本質は人間の根源を表現せしめんとする行為であるとすると、とても身近なことを扱っていて、本来遠くにあるものではないのだ。


そうして、そういう本質に気がついた時には、大分歳をとっていたりするのである。

わたしは芸術には縁がなかったと…


でも、そんなことを思う必要は全くもってない。



ここからは、わたしの超理論ですが!




『何かに打ち込んだことのある人は、全てのあらゆる物事にその経験を転写することが可能だ。』


極端な話、サッカーを極めた人が晩年、楽器に興味をもったとき、その人が習得し理解する早さは、サッカーの経験値によって加速する。

それは、興味をもったことに対する根本的な困難や苦悩は、ほとんどおなじだからだ。


サッカーをやったことがある人は、リフティングがある一定値を超えると、それ以降は無限にできることを知っている。

楽器をやったことがある人もまた、一曲を繰り返しやって、ある一定数を超えたとき、理解できる世界があることを知っている。もちろん、その先の本当の喜びと苦しみもあるが笑笑

分野が違っても、分野違うことで扱う言葉の定義や体の部分が違うだけで、心の扱う部分は変わらない。

これは、文系とか理系とかの学問内の区分でも同じ。
言葉や記号が違うだけ。




また、話がずれそうなので、この辺にして笑笑



芸術というものを、現代で言うところの言葉や建物の区分で遠く感じるように思うことなく、何か一つで良いので、扱って欲しいということを伝えたかった。







最近、読んだ本「神仙の人」の中で、主人公日出麿さんは全く習ったことがないのに、書や絵や俳句が一流であったとの記述があった。

なぜ、偉人は芸術として残すのか。

それは芸術しか神を本当に思考する方法が現代にはないからである。

これはショックと同時に、そうかもしれないと思った。


かつては、宗教や学問(哲学や科学、天文学、数学などなど)にその力があったが、今はそれらを成し遂げた人の業績、結論だけに目がいってしまい、彼らの思いや姿勢、生き様へ目が向いていないことからも、そのちからが失われつつあることが分かるだろう。

本質は常にシンプルであるが、人間を通してみたときは特に複雑なもので分かりにくいものになる。
肉体を持っているということが、現実感覚を錯覚させるのだ。

だから、分かりやすく、利用しやすく、役立ちそうなものに曲解してしまう。


昔の科学者と言われる人が、信仰心が強かったと言ったら今の科学を扱う消費者は信じられないだろう。現代の科学者の人は、わかる人がいると思う。科学とは、その科学者の熱量による。それはすなわち信仰心ともいえよう。

キリスト教の地域だからそうだよねっていう今のレベルの信仰心ではない。
本気で祈って、科学をしていた。
宗教と科学と芸術が、同時進行、同時信仰していたのが、かつての世界。


翻って、今は芸術しかない。

日本にも近代に文学によって死を選んだ人がいた。この熱量が信仰にも等しい。芸術の力なのだ。
他人から見たらただの狂った人だろう。
そんなものに本気にならんでもと…

本人にとっては一大事、文字通り、一大事だったのだ。

それは、食えないから死ぬのではなく、自らの信仰、熱量、世界、宇宙、哲学、美学ゆえの死。

今でいうところの真我、神我、アートマン、ハイヤーセルフを感じることは、それほどまでに過酷だったということ。

これだけでもこの時代に生まれてきたことに感謝しかないと思う。






量子力学は、可能性の世界に触れる方法でもある。
重要なのは、可能性を固定化しないということ。

養老孟司さんは、これをばかの壁と言った。

これを目に見えない世界に応用して、壁に気付いていく、これがかつての修行の世界。


可能性に触れるというのは、コントロールするというよりも、その可能性が広かったということに気づき続けることで、触れることになり、整っていく。
どうでも良いのではなく、どれでもいいという心地。

そして、それがとても気持ちいいという感情。


一定量の水を流した時、川幅が狭ければ、当然水量に圧がかかり深く勢いを増す。
その川幅が広ければ、浅く薄く勢いは弱まる。
そして、どこへでもいける。

その行先は、海であることは変わりがないが、急流ばかりでは緊張しっぱなしで疲れますよね笑笑

あっても良いんですが笑


これを目の見えない世界にも応用しようとするとき、目に見える直前、直後の『認識』を扱う学問である量子力学が役立つ。

波動が先に動くという理論とも符合する。

心の底からある可能性を否定せずに見ることが出来れば、その可能性を認識することができる。


あっ、そう言えばアニメ『シュタインズゲート』でも、最後は主人公自身に起こった出来事の『認識』(アニメでは観測という言葉を用いていた)が、肝だった。

『観測した事実を変えずに、結果を変える』

カッコええなぁ!

超厨二病な言葉だけど、目に見えない世界を表現する時には、どうしても詩的な表現にならざるを得ないので、そういう意味では、私の記事はほとんど厨二病患者と言って差し支えない。

知らない人には何言ってるかわからないと思いますが笑


この言葉の場合、観測した事実が変わらないのなら、結果は変わらないのでは?って思いますが、そうではなくて。

同一の観測者が、別の可能性を観測したとき、最初の自分が観測したという事実は変わらないが、今の自分が違う可能性を観測することで、結果が変わるということ。

シュタインズゲートでいえば、流れていたものは彼女の血ではなく、別の人間の血だったということを認識した。

シュレディンガーの猫で言えば、猫が倒れていたのを観測し、ガスが出て死んでしまったと認識する自分。
それを揺らして起こして寝ているだけだと認識した自分では、その時点、時点で結果が変わる。

助手に任せたのでガスは充電されていないのかもしれない。
猫はガスに耐性がつけられていたのかもしれない。
誤作動でガスは出なかったかもしれない。

猫が倒れていた後の認識のパターンは、幾らも考えつく。

観測者は、一旦トイレに行った後、助手が生きている兄弟猫に入れ替えたのかもしれないし。




可能性はいつも揺らいでいる。



私はより穏やかで楽しい感情のある世界を認識します!