魂の求めるところとは、求めるは、「もとめる」。

求めるとは、「もと」を目指したのではないかと思う。

それは、物理的に宇宙へというようなことではなく、『心のありか』として「意識」や「イメージ」「そうぞう」の中で赴くという感じがする。

外側での現象が、神としての自分の心の360°パノラマ映像であるなら、外に向かっても永遠に辿りつかない。
自分から一定距離の想像しえないホログラムの端っこをずっと眺め続けるだけで、『見つけた』と思うのは、自らの『見つける』という意思によって、現実化したということ。
粗を見つけようとすれば幾らでも見つかるということに似ている。

問題を探せば、問題は生み出されるのだ。
極端な話、問題を生業にする人は、問題を探すセンサーがあるというより、問題を作っているとも言える、この世界には様々な人がいて、あらゆる可能性があるので、それをホログラムとして反映しやすい人に意思として反映されるようにもとれる。

また、中にはそういう意識はしてないが、問題が起きる人がいる。
それは、今風にいうならハイヤーセルフの導きであり、もう少し古典的な言い方をすれば、運命というほかない。


前者の問題を生業をしている人と後者の問題が起きる人の違いは、何だろうか?

前者は、『生業』ということから分かる様に、現世利益としての「我」の意思が、外側に反映してたもの。つまり、他人事である。

後者は、自らの生まれ持ってきた根源的なエネルギーが外側に反映したもの。つまり、そこに「エゴ」がないのだ。しかも、こちらの場合、自分ごととして、向かうより他にはないことが起きる。


冒頭に戻って。


「求める」というのは、「もと」を目指すというとすると、現象は常に内側が外側へ反映されるのであるので、その「もと」とは自らの「内側」へということになる。

自らの魂の内側へ「意識」「イメージ」「そうぞう」することで、「もと」(還るべき場所であり、根源)へ向かっているのである。






日常の雑務にまみれていたら、こんな何の得にもならないこと考えてられないですよね笑笑

でも、それ程までに人が人ではなくなっていってしまっているとも感じる。

余りにも矛盾している様なことが多い。

こんなにも技術が発達した最先端な時代なのに生きるのが精一杯だったり、未だに貧困があったり、子供が増えないというのは、どう考えてもおかしいと思いませんか。
技術が発達したからこそ大変になっている様にも思ってしまいます。


それを政治のせいだーって思考停止するのはとても簡単。
おおくの政治家だって、俺のせいじゃなくて前の世代のせいだぐらいにしか思ってないでしょう。
自分がやったんじゃないという免罪符のもとに。


そうじゃなくて、本当はそもそも人間の魂(肉体に対して)が何を求めているのか、という魂や心のことを考えるのをやめ、多くの人の意思を反映しているのが、今の世界という事実。

だから、実は一番考えるというか、意識した方が良いこと(魂や心のこと)は、得にならないからと魂や心を考える文化、習慣を捨ててしまった、捨てさせられてしまったことに気がつかなきゃならない。

けれど、そういうと、そういう文化があった時代でも「争い」はあったじゃないかという意見もあることだろう。

わたしは、「争い」がだめだとはいっていない、良いとも思わない。しかし、動物的肉体を持っている以上は、そうした野蛮性をもっているのは、致し方ないと感じる。

肉体から離れてしまった兵器がやりすぎなのである。
人の手を離れれば、痛みを失う。心を失うのだ。




真に『平和』を目指すのだとしたら、それぞれの人が、それぞれの心の『平和』を目指すということ。
争いが、良くないと思えば、自分の中の争いをなくすこと。


これが、「自分に還ること」であり、『魂の求めること』にも通じる。


そんな風に思う、