今日も過去にも記事にしたことがあるような内容ですが、思い出したので、書いてみたいと思います。


都庁の展望台に上って、遠くを眺める。

その風景は、日によって様々で霧がかかっていたり、光が白かったり、赤かったり。

どこまで何が見えるかという点では、毎回異なる。


今日は霧がかっていた。

西の山々は見ることができなかった。

ホログラムの世界の端っこは、いつもこんな感じで、見えなくなって終わる。

人は、その見えないという感覚を視力の問題だとすぐに認識するが、そうではない可能性もあるんじゃないだろうか?

もちろんマサイ族の人がいたら、私たちより遠くの動物が見えていることだろう。
そういう彼らであっても、視力としての限界はある。

見方をかえると、私たちから見てマサイ族の人は、見えないものを見ているとも言える。

それは、獲物を見つけるという意思をもって、見るから見える、捉えることができるし、結果、身体能力として具現化したとは、考えられないだろうか?

といういうか、一般的にもそう解釈しますよね笑

つまり、マサイ族のなかでは、見えて当たり前という現実としての概念を共有して認識しているので、そういう現実になる。

という、人間は、至極真っ当な人間の想像力の先としての現実化の能力を昔から知っていたのである。

もうちょい踏み込んで、そこに時間という概念をどう捉えるか、考えるとどうだろう。地球という3次元、4次元では、どうしても問題になるように捉えてしまう。
(それを問題として捉えることからも外れた方が良いんですが)


よくある「修行」「努力」という概念に近いかもしれない。

取得するまでには、時間がかかるものだという概念。

でも、本当にそうなのか?

これの概念もホログラムの世界の端っこの一つである。

ここが限界だという概念の端に立ったとき、「本当にそうなのか?」と思えることが、ホログラムの世界の端っこの不確かな向こう側を「可能性の海、空、宇宙」として考えられるかということの肝のように感じる。



ホログラムであるこの世界の端っこに、追い詰められたとき、「本当にそうなのか?」と思えるかどうかは、自分に起きた体験のなかでこんなことがあるのか〜と思ったことが、どれだけあるかということに依存する。

わたしには、そんな奇跡みたいなことはなかったと多くの人は思うでしょうが、必ずこれまでの中で出会っています。

それを、偶然として片付けてしまっているだけ。

その例外も可能性の中にあるんだと感じるとこれからの認識が変わっていく。


可能性が無限大であるという言葉の意味。

経験に無駄なことはないという言葉の意味。

はここにあるように感じます。


自分に起きたことが、相手にも起きないわけがない。

他人に起きたことが、自分にも起きないわけがない。

そうは思いませんか?


わたしはそう思って生きてきました。


どこの星からきたとしても、どんな先祖の遺伝子であっても、「人間」であることは同じ。

同じ「人間」がやったことを、自分にはできない
のかと言ったら、そんなことない。

その過去の人間が広げてくれた可能性を自分も扱うこともできるし、広げることもできる。

そのように思います。


これは、解放、超える、外す、許す、気づくという概念の一つの捉え方です。



ホログラムの世界の端っこを広げていきます。