今を生きる
人は、生まれてからどこを切り取ったとしても、今しか生きていない。
それでなお、多くの人が「今を生きる」「ここを生きる」ということを発するのはなぜだろう。
いつだって、私も貴方も今しか生きてこなかったはずだ。
だから、今がある。
今更、今を生きてと言われても、困る人もいることだろう。
その辺りを考察しました。
私の体験を基にした勝手な考えです。
以下①②③の流れと各解説
①社会や世間での評価、常識と言われているものに、合わせて「今を生きる」
②①みたいなのに疲れたり、病気や様々な症状により、ドロップアウトしてことから、自分の興味関心を振り返り、これが自分なんだなぁと思えるの「今を生きる」
③②が実は、最初からここにあって、用意されていたと気づく、それが『与えられたもの』であり同時に『自分である』と認識して「今を生きる」
自分の体験から、「今を生きる」の内容、状態を体験したと思っている順に並べてみた。
①について
スピ系の多くの人が、「自分を生きていないのだから、今を生きていない」という説明になると考えられる。
しかし、①の段階では、当人は当然「今を生きてる」ので、「だって仕方ないじゃん、それが社会でしょ?我慢して今を生きてるんだ、お前何言ってんの?」となる。
全く持って同意出来る、正確にいうと私自身はここまで、そういう愚痴を言ったことはないが、それが社会なんだということを受け止めようとしていたのは、事実。
でも、そういう人に限って、ホリエモンやキンコン西野さんのような方のSNSの情報に関心があり、その考えを取り入れようとする。
今の時代のそういう状況を見ていると、それは、良い悪いではなく、本能でわかっているんだと思う。
そういう「今を生きる」をしたいということを。
それは、世間とか誰かの常識の枠ではなく、自分の心の動くことで「今を生きる(②)」ということ。
②について
自分自身もそうですが、これまでの社会の仕組みの中にいては、「そういう憧れるリーダーのような人がいても、そうはいっても何やっていいのか分からない…」となって、これまでの作業がやりたいことではないのに、大事なことだと思い込んで(思い込まされて)、そういう
「今を生きる(①)」ことを続けてしまう。
何をやりたいか分からない以上、新しいことをするベクトルを見出せない。(と思い込んでいる)
この状態は、思考が停止し、知っている作業をこなすので、何かをしたという謎の充実感(エゴ、我の満足感)があり、決して楽しくはないのだ、『ラク』なのだ。
その結果、よく起こる作用として、事故、病気、離別、離婚、孤独という一般的にネガティブで刺激的な現象が起こる。
これは、内にかかるストレス(なんとなくやりたいことではない、やりたくないことをやっている)と体とのバランスが崩れることで、病気、集中の欠如としての事故、フラストレーションの解放による親近者とのトラブルが起こると考えられる。
それらの出来事も祖先や過去の因縁が作用しているので、全てが全てそうとは言えない。
しかし、魂のレベルでいうのなら、そういう因縁を受け入れて生まれてきているので、本当の「今を生きる」ためのトリガーとして、因縁を使っているとも言える。
③について
②で自分の「今を生きる」ということを模索していく中で、人はどうしても『停滞』を経験する。
それは、蝶でいうところの「蛹」である。
今までの概念の社会から離され、身につけたものをリセットされていく。
そういう体や心の立て直し期間なので、探しても見つからない。
見つからないようにして、様々な状態(体、心、縁、タイミングなど)を整えているとも言える。
見つからない理由はもう一つある。
それは「自分が!」の「我」で探しているから。
「我」は、無くしたものを取り戻そうとしたり、埋めようとする。そして、焦り、もがく。
せっかく、その『停滞期』を設定してきたのに、また『我』による不足感を満足されるためだけにこれまでの道に戻ることになるだろうか。
答えは、そうはならない。
ここで焦ってもよし、そうしたらまた戻されることになるので、大丈夫です。
私は焦らない方をお勧めしますが。
私の場合は、「焦っているな」ということを認識し、「我を満足させるために、ちょこちょこ動く」ということをしていました。
かといって、我をなくせたのかと言われると、そんなことはなく、常に出てきます。
そうして「なんとかしなきゃ」「どうしよう」「どうしたらいいか」という考えを浮かばせます。それに取り込まれてしまう瞬間もあります。
最近は、本当に減ってきた。
それでも、観客席の時点で感想をうっかり言ってしまうものだから、相手を怒らせます。
自分事ですら、他人事になっていることがあるんですね。
もうそういう視点がある事はどうしようもありません。
その中で、一旦役に戻ったつもりで謝るのですが、本当はそう思っていないので、棒役者です笑笑
話を戻します。
自分が!自分が!で探す事をやめて、自分だったものを取り戻そうと引き返すとき、「自分が何なのか」ではなく、「何が自分なのか」ということを思い出し、繋がる。
自分だったものとは、どんな土地でどんな両親のの元で生まれ、どんな兄弟がいて、どんな学校に行き、どんな友達と会い、どんなことに興味を持ち、どんな人に惹かれて、どんな会社でどんな仕事をし、どんな人と出会ったのかということ。
どんな過去生をもち。
どんな星を通り。
どんなエネルギーをもっているのか。
知った結果、そのことに囚われたくないと思うことさえも自由です。
使命や役割に囚われなくても、そうなるのであれば、自然にそうなるので、『囚われる必要は無い』のです。
でも、影響を受けるということはあります。
そういう「与えられたもの=宿命」が「自分」があり、そのエレメントを活用して、「今を生きる」と気づいたとき、心が震えるような感動が起きたりします。
その感覚は、信じてもいいんじゃないでしょうか。
遥かなる 寄せては還る 我が故郷
揺蕩う光は 泪のしるべ
「置き忘れてきたものの意味を知りて、取り戻そうと引き返す、やがて浄化は終わり大地には新しい芽が生まれ始める。」
