大げさな話ですが、

運命を生きるということは、宿命を受け入れるということの先にあるように思います。


宿命は、自己固有である己を知るということで、即ち何が自分であるのかということです。


どんな土地でどんな両親の元に生まれ、育ったのか。

どんな学校へ行き、どんな部活をし、興味を持ち過ごしてきたのか。

どんな土地でどんな仕事をしてきたのか。

一見、偶然に思える出会いの連続こそ、全て見守られていて、導かれていると、繋がっていたと分かることが、宿命を受け入れるということのように感じます。


宿命=変えることのできないもの


命が宿るのは、いつもその対象を認識し心を込めたときです。

自らの命が自らの体に宿るのは、その体が何によって作られ、何に触れて、経験してきたかということを思い出し、そこに込めてきた過去の自分の意思や家族、友達の思いの全てが、今の私の命に宿り、宿命と為していると言えます。これは、例えであり、もちろん先祖の思いもまた含まれます。

そうして初めて、命は動き出し、運ばれると考えられます。

どこに運ばれるのか?

それは、宿命という土台の積み上げられている方行ではないだろうか。

その方角は、不確かで未達の世界でありながら、「信じる」という一燈のみに照らされた、鋭利な感覚を頼りに向かう他ない。その勇気を向けた瞬間の境地を「空」と呼び。「無」と呼び。「瞑想」、「リラックス」、「ワクワク」とも言う。

その方角は、定められているようで、定まってはいない自由意志の余地がある。それは、形はなんでもいいのである。そこに意図され込められたもの(思い出されたもの)が、重要であって、それがなんでも良いが、体験できる何かに形作られれば良い。




これまでの宿命の全てをこの先の運命の流れに使きることを、生ききるということと感じます。