ここに書いてあることは、全て現状での私の世界でのことです。



私の場合、散りばめられた言葉が問いかけてくる。

「ただの偶然だ、流行だからよく見るんだ」という解釈もいいだろう

でも、そうやって考えるより、より面白そうだと思えば、「なるほどな、これがヒントか!?」と謎解きを進める少年のように思い込む、即ち自らの名の下に信じる方が面白いと思う。

もちろん、あれやこれやと考え過ぎてはいけない。

というより、考えてはいけないのだ。


これまでの世界、歴史で言えば、ここ100年程度徐々に特に「考える」が「主」になってしまっていて、それが「常識」となっているように思う。

もしかしたら、昔から「考える」のは、たしかに「常識」でだったんだけれども、「考える」という概念そのものの意味が違っていたのかもしれません。

私が最初に書いた「考える」は、「頭で考える」の意。ひと昔前は、「頭でなく五感あるいは六感を使う」の意。

何を行っているかと言うと、おそらくひと昔前の方は、「考えろ」と言われて、頭だけを使っていたわけではなく、五感(目、鼻、口、手、耳)を使っていたというと分かりやすいと思う。

職人は、目で見て覚えろ、鼻を使って匂いで覚えろ、手で触って覚えろ…とそういう常識でした。

「考えろ」といわれた先に「考えたこと」や「考えをやめた」結果、五感(本当は第6感も)使って、今に集中していたでしょう。

禅問答や本当の修行というのは、全て否定から始まる。「師匠、これですか?」「違う」「じゃあ、あれですか?」「違う」「これとあれしかないじゃないですか?」「違う」…これは、決していじめなのではなく、「我」を捨てさせるために行われているもので、頭で考えるなということを伝えている。

つまり、師匠からすると「俺に聴いてる時点で自分の感覚、即ち自分を信じていないな、我があるな」となる。だから、「全部違う」となる。

我が無ければ、相手はいないが、我があると相手が生まれるので比較が生まれる。つまり、確認したくなるのだ。

これは一喜一憂することも同じで、我が無ければ、自分の内側で自分事して受容するので、穏やかなままとなる。これは、至福、幸せと表現する方もいるので、喜びに該当するが、全てのことを喜びとして捉えられるとするなら、一喜一憂はしていないとも言える。

いわゆる統合という過程にある人は、この感覚が薄なっていたり、不安や怒りが続かなくなっていることでしょう。
我がなくなっているから。


話を戻して。




でも、近代から最近までは「抽象的な主観」=感覚を排除する「具体的な客観」を主とする社会が形成されてきた。個人的な主観について、「その根拠は?」とか言われる、よくあるそれを求める会話は、その典型。

本当は、「具体的な客観」も元は何処かの誰かの権威に基づく「抽象的な主観」に過ぎないのですが、その権威が根拠になるという事が「常識」になっているので、そこを疑わない。

科学で言うと、科学者が思考した仮定とその証明の過程が科学者の個人的な「抽象的な主観」で、有名な論文雑誌に載ったとき多くの人の「具体的な客観」となる。

もう少しいうと、論文を検討する科学者は、その内容を自分の「抽象的な主観」に照らして、融合していくので、雑誌に載っても「抽象的な主観」になるとも言える。

その過程や理論の本質を追わないで、結果だけを使っている人々にとっては、「具体的な客観」でしかない。


その「抽象的な主観」は、「具体的な客観」を主とすると世界、社会においては、軽視されてきた。
「目に見えないものは信じない」という思考停止。

本当は、「抽象的な主観」=『自分の感覚』が一番大事な事なのだ。


さっきもお伝えした通り、「具体的な客観」もその理論の元は、ひとりの哲学者、科学者の「抽象的な主観」から始まっているので、「抽象的な主観」が主。

その「抽象的な主観」が、全てを作っている。

ある1人の力から始まった事が、100年単位で鉄を空へ、宇宙へとばし。波長に情報を乗せ、世界を駆け巡るどこまで来ている。

これが人間の「自分の感覚」を信じることの力だとすると、今ここに生きている私やあなたの「抽象的な主観」、妄想、想像、感覚も捨てたもんじゃない。

そう思う。


観たいものを観ればいいのだ。


それに、今この時は、一度強烈に「感覚」を主とする考え方を封じられて、取り戻すというゴムの張り見たいなものとも思えるので、これもまた必要なことだったのでしょう。







そうすると、私の目の前で起きたことは、私にとって、起きた時点で偶然ではなく、事実であり、他者の誰かに依存した「具体的な客観」という可能性を超えているので、聴く必要はないし、また聴いてもいい。
聴いた結果、感じたことがあるのであれば、それもまた私の「抽象的な主観」になりえる可能性を秘めることになる。



私は、結果ここで文章を書くにあたって、頭を使っているが、それは内容や語彙にではなく、一応日本語としての文章として成り立つようにするために使っていて、内容や語彙の意味については、書き終わるまで、どんな内容になるかは分からない。
書きたいことを書いている。
文章については、五感というより、六感や七感と言ったところで書いているのかもしれない。



今これを書こうと思ったのも、ミゲルデウノムーノの「内側に進め!」という言葉を得て、最近読んでいるハチワンダイバー(漫画)の「ダイブ(潜る)を思い出したからであり、外側に答えはないという真理に沿うものであると思いついたからだ。


偶然はあり得ない。

今日この日の出会いに感謝を







自分の感覚を信じるにあたって、大事なことがある。

それは、一言でいうと「浄化」と言葉に集約される。

これらを進めながら、感覚を取り戻すことが肝要。





大きく分けて二つ。さらに、それぞれについて現世とそれ以外(過去生と家系)について、2つに分かれると考えられる。


①自らの魂のこれまで経験してきた周波数の浄化。
    ⑴過去生の自分の周波数
       …宇宙含め輪廻転生の過去生での出来事についての感情、思い

    ⑵現世の自分の周波数
       …現世生まれてからの出来事についての感情、思い

②自らの肉体の家系として経験してきた周波数の浄化。

   ⑴家系の先祖の周波数
      …DNAに刻まれた両親の先祖の経験の感情、思い

   ⑵現世の自分の周波数
       …現世生まれてからの生活習慣、事故など物理的な行為によって、肉体に集積したもの




自分のことと言っても、これだけあるのである笑笑

もちろん、過去生も家系も現世で主要なイベントも生まれてくるときに設定として、自分で選んできているので、大丈夫です。

だからといって、今の自分が、全くもって綺麗だと過信するのは、あまりよろしくない。

謙虚に感情や思いに向きうこと。





そういったノイズがありながらも、自分の感覚を信じて、行動していくというのが、今の私の意識になります。


大分、吐き出したー


まぁ、どっかの誰かも言っていることと思いますので、お気に為さらず、失礼しました(´・ω・`)