最近、先日紹介しました葉室頼昭さんの神道シリーズの本を引き続き読んでいるのですが、20年前に書かれているのに、あまりにも今に通じている内容に驚きます。もしかしたら、今の私にとって良いタイミングというだけなのかもしれませんが。
特に、最近『感謝』についてのメッセージをキャッチすることが多くあります。
妻からの感謝の言葉、少しのことに「ありがとう」と言える心が本当に素晴らしいなと日々尊敬を新たにするとともに、なかなか素直に言えない自分が恥ずかしく感じていました。
また、様々な方のブログを拝見するかなで、注目している方のものを読んでいると、この『感謝』をいわゆる気づき、シフト、全ては◯ということに至る方法として、共通して書かれていることに気づきました。
本質的に大事なことは、リーディングやチャネリングというよりは、それらを観て知った後の処置にあるように思います。
今は、ブロック解除、書き換えという方法によって達成されるのですが、本当の本当は自力で気づけたら、お金も時間もかからないのです。
でも、自分でもできる解除、書き換えのための大昔からの智慧が、『感謝』なのだと思います。
本の中で葉室さんも感謝について繰り返し伝えています。
しかし、その『感謝』の本質というのを掴むのに、人によって時間がかかってしまい、上手く機能していない部分もあるように思います。私もそうです。
勝手な解釈ですが、『感謝』の本質とは、『3次元的な対価としての感謝ではなく、無償の愛、慈悲に近い概念に対する感謝』ということにあります。
これを理解、体感することが中々難しい笑
これは、体感している人にとっては、当たり前過ぎて説明ができない。だって、体感して分かっちゃっているから。
どう体感しているからというと、自らの『死』の直面からの生還という体感です。
この体験は、否応無く『生かされている』ということに気づかされます。
そして、そのことに『感謝』するのです。
言葉じりでは『生かされている』ことに対する対価としての『感謝』のように思われますが、彼らが感じた『生かされている』という体感は、そうではなく、「対価なんておこがましいほど関係なく無償に常に神様、宇宙、根源から本当にそれこそ全てのものを自分は与えてもらって、体があり、存在出来ていんだ」ということに気がついてしまう体感なんです。
だから、目に見る形で何かして貰ったことへの『感謝』ではなくて、例えば、ぼーっとしているだけで誰にも会っていないのだとしても、その一瞬の時間と体感にも感謝しかないのです。
また別の言い方をしますと、神様(宇宙)から人間へ向けられる常にある無償の愛、宇宙エネルギーに対応する人間から神さまへ向けられるエネルギーが無償の感謝なのです。
無償の感謝とは、あくまで究極的な感謝の意で、現世的には気づけないことも含めて全ては神様の計らいだと思える心ともいえると思います。
本当は無償の愛が常に先なので、感謝は無償にはなり得ないのですが。
神様からの無償の愛にどれだけ応え、気づき、感謝できるかというのが、神様やハイヤーとのチャネリングの統一度合いとも言える様に思います。
よく感謝することができないという感情がある方もいらっしゃいますが、やはりそれが傲慢なんですね。(私もそうでした)
なんでかっていうと、存在しなければ、感謝できないという感情すら得られないということをわかっていないんですから笑笑
「我」とか「エゴ」としての自分は、存在していることが前提なんです、存在していなかったかもしれないのに。その可能性を考えられない。
これが傲慢を作り出している正体。
この「我」、「エゴ」というものは、神と人、宇宙と人の間に雲の様に広がり、遠くにある様に屈折させます。同時に、人を包み、人の気を弱らせます。これを「罪=包み身」、「穢れ=気枯れ」といって、これらの原因である「我」を払うことを「祓い」と言っているそうです。
…
葉室さんは本の中で繰り返し同じ話をして下さいます。本質的な法則を具体的な言葉で話すときの葉室さんの理解は、それらの表現に集約されているからかもしれません。
「神道のこころ」を読んだ時点で、自分に掴めていなかった概念として「反射」がありました。
凄い表現だとおもったもののなんとなくだったのですが。
「かんしゃ」と「はんしゃ」を掛けて、感謝の対象を表現していたことに気がつきました。
世界は闇が主であり、それは地球もまた同様であるが、地球において光と闇の二極を体験するために、空気を作り太陽からのエネルギーを『反射』することで、明るい光と熱を生み出した。
この『反射』が無ければ何も生まれなかった、このことに『感謝』するということです。
宇宙創生から科学的な思想などなどの切り口は、本当に秀逸です。

