外側で起こっていることは、現象であって。

それだけのこと。

それでも、心はザワザワすることがある。

なんとかしようとする。


現象を観て、そういう面もあったのかと。

しかし、わかっていた事でもある。



そういう自分を眺める。



どうしようもないと思っても感じてしまう。



そういう自分を眺める。





そうして、その「現象」から「もしも」を思考する。

もちろん、今にいる自分にとって「もしも」は、起こり得なかったから「もしも」なのです。

けれども、「もしも」の世界も揺らぎの中にあるのかもしれないし、ないのかもしれない。

「もしも」を具体的に想像できるのなら、あるのかもしれない。

そんなことも「もしも」についての考察も含めて、その「もしも」が起きてしまったら、起こらなかったらを想像する。




そういう自分を眺める。



「もしも」が起きてしまったとしても、私は私を眺めていられるだろうか。



そんな自分を眺める。



そんな「もしも」を考えるのは、これまでの癖であり、その多くは恐れから想像してきた「傾向と対策」というやつである。

「傾向と対策」は、正確には外側に対する「対策」ではなく、「反応」であり、Aが起きたら、Bをするという世間一般的に論理性があり賛同を得うる反応をしていることが、ほとんど。


それは、自分に対する「対策」にはなっていなかった。

本当は、その「対策」すらいらない。

どうにかしようと考えたその「反応」の大元がどこにあったのか、どこからきたのかを眺める。

そうすると、思い浮かぶことがでてくる。


それは、自分だけでなく、相手にとっても大事なことを演じていると感じる。

どうしようもないことをどうしようもないと感じる。

昔だったらこう言っていたなということを感じる。

感じたら終わり。



「もしも」は、今起こらなかった世界であり、取り戻せないから「もしも」なのです。


「もしも」と聞いたとき、どんなことを思いましたか?



「もしも」で後悔したことを思い出したとき、そのことかあったことで今があることを感じて欲しい。

「もしも」がなかったから、今があるとも言える。


「もしも」を考えてしまうことが悪いことではなく、大事なことは、その可能性は良い方にも広がっているし、悪い方にも広がっていて、そのどちらでもない結果によって、今があるということです。