至ってシンプルなことだったのですが、多分意味があると思います。


自分の場合(直感で出てきたこと)

①税金計算したくねぇなぁ

→あまりにも法律が破綻しているというか、本当にみんな体系的に理解しているのか…というのと、仮に何十年研究して理解した結果、全部政治の都合じゃんというオチが想像つく笑
\\\\٩( 'ω' )و ////

まあ、大昔から宗教や法律は、そうやって人民を統制するために使われてきたわけで、そういう使い方がダメだとは誰も言えない。

現代の人の命の重さとしての主張、権利が、前提となっている倫理観においては、『自分から見て平等と言えない』状況の認識は、その対象への報復という形で、発散され、淘汰される。

では、真に真っ当な課税、または納税は、実現できるのだろうか。

インターネットのない時代、見えないところで行われていた税務署による無予告調査や今なら脅しともとれる取立てのような手法があった一方で、納税者側は、見つけにくいことをいいことに滞納を繰り返し逃げ切る、書類も何もかも保存しない、犬の名前の通帳を作る(聞いた話)など隠し方は様々横行していたことを考えると、自分と他人トータルでの平等性、そしてその手段を使うかどうかという公平性は保たれていたように思うのは、いささか強引だろうか…そうして、今まで命を繋いる人や法人もあるのである。

少し話がずれるが、皆自分や家族がしてきたことには、棚上げ。もちろん私も含めだが。

自分の家系が実は江戸時代盗賊だったり、暗殺家業だったり、越後屋で裏金渡していたりして、存続している可能性もある。

現代で言えば、一回の粉飾によって今がある会社もあることだろう。もちろん、その場合にはその一回の重さを認識しているからこそ、今があるのであるが。そうやって救われるべき会社も極々少数いるように思う。

そうすると真の意味での平等性、公平性はどの時点でどのくらいの期間でという区切り、枠の中でようやくというか、なんとか成立できるかどうかというとても危うものといえよう。

人は、70〜100歳程度生きることを考えると、世代が変わる期間を考慮して、150〜200年程度担保し普遍的な制度が望ましいように思う。
世代は越えれば、物理的な、かつ短期的な怨恨は薄れるから。


ところで、税金って、国民にわかりやすくって、根幹的な考え方があるのですが、知ってますか。

疑ってしまいますね笑




②修行したくねぇなぁ

→これは、私の修行のイメージが「努力」や「時間を費やさないと身にならない」という鎖になってしまっていて、呪縛になってしまっているように感じるからです。

毎度のことですが、修行そのものが良い悪いではありません、私にとっての修行というイメージが、宜しくないのです。
私個人が大学受験も国家試験も体験(修行のような体験)して、時間をかけて合格したという結果を得た上でなお、今そう感じているというだけです。

何かを身につけるため、その手段として継続することは、定着させる、習慣化させるという意味で非常に大事です。

では、努力は?というと。(私のイメージ)

人が本来の性質を発揮できるとすれば、必要ないように思います。それは、考え方とも言えるのですが、自分が向かうところが分かった人というのは、もうすでにやっているし、きっとそれを努力とも感じていない。その過程の失敗すらも自らの目的の前には意に返さないだろうと思うからです。

努力とは、あんまりやりたくないけどやらなきゃいけないと思い込んでいるものを習得するときに用いるものと言えるような気がします。

頑張れという言葉もそう。

一時期とても聞きたくない言葉でした。

頑張っているし、まだやらんといかんのかと笑笑


これも、努力と同じでやりたくなくて、でもやらなきゃいけないと思い込んでいることをやるときに使うことが多いです。

運動会なんかもそうですね。

走る人が好きな人は、別に頑張ってなどいないのです。速いしだろうし、沢山褒められているし、もっとはやくなりたいと自発的に思います。少なくとも私は走ることは頑張らずにただ好きでした。少しでも速くなることが。だから、「頑張って」って言葉に、「頑張るよー(当たり前のことをするだけやで)」ぐらい軽い気持ちでした。

一方、走るのが嫌いで遅い人からしたらどうだろうか。「頑張って」と言われて、「嫌だけど頑張ってんだよー怒」って思っていたことでしょう。




相変わらず話が長いですが笑笑



ここまで、かいてあれなんですが、しないと決めることよりも、しないと思ったことのイメージを変換することが大事なように感じました。

最近よくあるブロック解除や書き換えってのと一緒かな。

本当にしなくてもいいのですが。


こうして税金に対する考えや思いを、言葉に出すだけで、こんなこと思ってたんかーということに気がついて、外側の世界だしもうどうでもいいやーってなってきた笑

修行も勝手にそう思っていたイメージを言葉に出来たので、もういいやって感じだな。

外側にとらわれると、終わりのない世界へ入り込んでしまうことがあります。

他人が気になると、他人の視点で考えるんだけど、他人になれるわけないから、その人がどうおもうかは永遠に分からんわけです。これが、終わりのない世界。

だったら、自分がしたいことをして、したくないことをやめると。

または、イメージを受け止めて、気づいて、放り投げる。

誰かの正解探して、無理に引き受ける必要はないのです。
正しい解は、相手の中にしかないので、他の人は引き受けられません笑
相手の中にも自分の解があると思うのは、なんとも強欲。


もし読んでくださっている方がいるとすれば、いつもありがとうございます。