昨日は、映画を二本借りて、観ました。


まず、「アノン」は、先日紹介したアンドリューニコル監督の最新作、近未来SFです。
世界観は、マトリックスに近い、人間そのものがインターフェースとなっている世界です。
所感としては、凄く淡々と進んでいき、上がり下がりが少ないので、物足りない、説明が足りないと思う方もいるかもしれませんね笑

ここからネタバレですが、全ての自分の行動が記憶されて、監視官によって、アクセスされ監視されると言うのは、とても潔癖な世界とでもいいますか、極端な世界です笑。

それを言ってしまえば、遺伝子で全てが決められる世界「ガタカ」でもそうですし、時間が価値の全てとなった世界「タイム」、自らの人生がテレビの中の世界「トルゥーマンショー」もそうで、ニコル監督は、ある種の偏った世界の「エラー、イレギュラー」の存在を描くことで、いつも世に問うているようにおもいます。

人間の可能性って捨てたもんじゃないよってね。


極端な価値の世界でも、常にその両極で苦しむ人がいるし、その世界でも相変わらず良くも悪くもその価値に従う人々が大多数。しかし、サイレントマイノリティーとしての可能性という「エラー」「歪み」も必ず生じることを監督は示唆する
。そして、それはいつも最も人間らしい部分、感情から生まれていることも。

ここからは、さらに私の解釈ですが、正確には感情だけではない。感情はあくまでも人間的な行動のための「燃料」(あえて別の言い方をすると、回転数、内的エントロピー(内側の乱雑さ))、で、そこにきっかけとして「違和感(この完全だと言われている世界が完全ではないという違和感)」に対する直観、閃き、思い込み(もう少し極端にいうと、取り違え)という「トリガー」が引かれることで、「世界の常識」から外れた「エラー」が発生している。

どんなに突き詰めた理論で作られた世界であっても、人為的な理論で作られた不自然さをすべて消すことはできない。

その世界のその不自然さに気づいた者、すなわち「エラー」は、人為的な理論の反作用として生まれてしまう。

けど、それは人間としての可能性の現れなのだと思う。

そうして、生まれた者はその道を進むしかないのだ。

あるひとは、そのことを戦い続けるしかないという。

あるひとは、そのことを受け入れるしかないという。

あるひとは、そのことを委ねるしかないという。





極端な世界の物語といえば、松本零士の「銀河鉄道999」を思い出す。

主人公は、メーテルを追ってあちこちの惑星に迷い込む。そこは、全てが極端な世界。

そうやって、読者は人間とはなんなのか。価値とはなんなのか。揺さぶられる。

オチも結構キツイですよね…

何のためにここまできたんやっていう。

うる覚えですが笑






次、「ミスターガラス」です。

15年前ぐらいの作品「アンブレイカブル」の続編。

Mナイトシャマラン監督が、確か「シックスセンス」の次に作った作品だったような気がします。
当時、高校生ぐらい。

間に「スプリット」という映画もあるようなので、そちらを見た後の方が登場人物は、分かりやすいですが、無くてもなんとか分かりました。


対極は、対極を生むということを見せているような映画でした。

前作は、「悪」と「正義」という対極。
今作は、「悪」と「正義」を一括りした異質なものと正常なものという対極。(視点がもう一つ増えている感じですね。)

ヒーローを望む。→ヒーローが生まれる。→ヴィラン(悪)が生まれる。→ヒーローとヴィランを観測する者が生まれる。

ヒーローとヴィランが生まれるとき、それがヒーローとヴィランであると認識(大衆による周知)されることで、ヒーローはヒーロー、ヴィランはヴィランとなる。

同時に、両者を認識した者が舞台に上がることになる。

当然役としては、その両者と対極としての存在(そんな奴らはいないよという概念を持った名前のない不特定多数)となる。


そうすると、「悪」とは誰なのか、「正義」とは誰なのか。ということが、わからなくなる。

その戦いは、すでに悪、正義を超えて自らの存在を証明する、または証明しないためのものになっているように感じた。

また、「なんで自分だけが」の疎外感は嫌で、一緒がいいという安堵を得たい、でもそういう雰囲気を壊す、または守っている自分は特別という優越感を得たいという両極を持っているという葛藤のようなものも感じた。

それは、エゴとしての私も持っている感情であるようにおもいます。
人の持つ感情は、とても複雑で合理性はなく、バランスを取ろうとしてバランスを崩し、エゴだとわかっている自分もまたじつはエゴに支配されていたりするもので、ややこしいのです。



映画の話でした。