「今を生きること」と「ストーリーに入り込まないことは、「これは感情だと分かった上でその現象を受け止めていくこと」にあるように思います。

しかしながら、入り込んでしまったりします。

それは、自分の軸がないからで感情が反応してしっぱなしになってしまうことが原因だったりしますね。

では、自分の軸=自信はどうしたらつくのか。


それは、体験しかないと思います。

他の誰でもない自分だけの今という体験をする中で気づくものです。

体験というと、体験を積み重ねるという視点で考えがちですが、そうではなく、その体験はその時の唯一の体験一回ごとに価値があったにすぎない。「あった」というのは、今はそれほど重要ではないということです。

最近、就職活動をしていると、どういう経験をしてきたかということを聞き出したいクエッションが投げかけられることがあります。
過去やったことについて一応は説明できるが、客観的なことしか言えない(当たり前のことでもある)、また他人事のようにも感じる言い方になってしまうという違和感に気づきました。

その根本には、そんな過去のことにどれほどの意味があるのだろう、あの時の私と今の私はあまりにも変わってしまったし、そこに一般社会的な整合性はないという感覚がありました。

そして、話をしながら、こりゃあどうにもならんなぁと思いました。


とりあえず、思っていることを伝えてあとは任せようと言いたいことをしゃべりました。

ネガティブなことを言ったところで、案件があればあるだろうし、なければないだけ。

私は私にとって、都合のよい、私の望む要望を伝えました。あとは、神のみぞ知る世界(私のね)。


青空の下鼻歌でも歌いながら待っていればよい。





今これを書きながら、気づいたんですが。

感情に端を発する肉体的な本能としてのエゴに従い、ハイヤーセルフに近い視点で行動することは、分離しているように思っていたがそうではなかったのです。(そうであっても良いのだが)


統合しているからそれらの視点が同居しているのではないだろうか。

分離していたら、その2人以上の視点には気づけないのではないだろうか。

2人以上の自分の意識がいるような感覚は、「私」という肉体の1人から見れば複数に分離しているという風に感じてしまいますが、そうではなく、その複数の誰かのうち1人にだけ入り込んで、気づかないということが分離なんだと思います。

本当はいろんな私がいるのに、わたしはとはこうであるというものしか認めない自分、そうジャッジしていることにすら気づかない自分が、一見軸のあるよに見えるがそうではない、完全分離している自分の正体だったのです。

意識が2人以上いるというのは、既に統合の世界だったのです。





また、変な言い方ですが、分離しているから統合を目指すのであって、統合していたら統合は目指さない。(当たり前か笑)ということにも気がつきました。

アセンションや統合を目指さなくなって、誰かの世界の法則、原理、メッセージから離れ緩やかになって、やっとその状態こそが統合しているということだったんだなぁと感じました。

そうしてやっと、あえて他者の世界観に乗っかって遊ぶことができるようになるんだなあと思いました。


まあ、だからといって何をするかわかったわけではないですし、何かをしたい顕在意識の自分が消えるわけでなく、何も変わらないのですが、それはそれでいいのでしょう。

気がつくということは、状態が変わらなくともちょっとしたことで気がつくことができるということがわかりました。(体験しました)

そういう機会を与えてくれた妻に感謝します。


体験とは、気づくためにあるようです。

気づくと委ねられる。

あれでもこれでも良いことに気が付けるから。


きっとどこで働くことになっても、私が私であることは変わらない。
私が関わりたい人に出会うのだろう。

住んでる家から近くで時間通りに終わり、心地よい人間関係と環境で、精神的負担の軽い職場を希望します!あと、給料も高いといいなぁー
私があると言えばあるので、大丈夫!
ちゃんとやることやるからよー


ブログが掲示板見たいになってる笑