『不合理を愛する』
尊敬している実業家の社長が言われた言葉で、ふと思い出したので、書いてみようと思います。
不合理について
合理的であることは、不合理の上に成り立っていいる。合理とは、不合理の一部を切り取った一部に過ぎない。
不合理は、三次元的には不幸に近い言葉でるように感ずるが、そうではない。
全てを作り変える力もあるという点においては、良い悪いの二元論ではない。両義を内包する。
その不合理とは、他の人は宇宙、他の人は神、他の人はYES、他の人は永遠、他の人は○などと言われているものに近い。
絶対的な前提。
自分は学生時代に科学を勉強しているときに、この問題にぶつかり、なぜ教授と言われてる人、科学者と言われている人の熱量が高いのか知りました。
科学者は、新たな何かを三次元に顕現するために新たな仮定を設定してそれに挑む。
彼らは、科学という一般的には合理的と言われる学問、技術を扱っているのにもかかわらず、やっていることは、ランダムスクリーニングや無限とも思える演算、仮定の設定と失敗という不合理に満ちている。
そのことを知りながら、そこに一生をかけて立ち向かう姿は興味のない人からみたら異常としか言いようがない。
彼らは、合理を愛しているのではなく、不合理を、そして不合理へ向かう自分を愛しているのだ。
そして、それが彼らの熱量の源泉なのである。
今の自分なら、それがとてもよく分かる。
…
彼らは、不合理が根源であること、そして、人間もまたそこから生まれていることを直感的に分かっていたのではないかと思う。
その行為は、自らの根源へ還る行為に近い。
例えば…
原稿ように自らの文学を書く瞬間も
お寺で座禅をして瞑想する瞬間も
真っ白なキャンパスに筆を置く瞬間も
鍵盤に向かい指を降ろす瞬間も
海、山、川、草原へ踏み出す一歩も
きっと同じこと。
何度も書いていますが、私は『GATACCA』という映画が好きです。
地球での疎外感から宇宙に憧れ、絶対的な不合理な現実に立ち向かい。そして、やり尽くして宇宙に還る。そんな彼の姿に周りも感化されていく。
命の尊さが描かれている作品。
主人公は、好きとか、ワクワクという感覚よりも、ただ直感的に宇宙に惹かれたように思う。その最初のきっかけは、確かに地球からの疎外感からだったかもしれないが。
だんだんと不合理なものへの挑戦そのものが目的になっていったようにも思う。
自らの寿命を超え生き残ったとき
完璧超人の弟に遠泳で勝ったとき
不可能はないことを悟る。
可能、不可能は他人が決めることではないことを悟る。
諦めが悪いという執着もあっていいし。
全力でやってもいいし。
やらなくてもいい。
思いつきでもいい。
人間の合理性の下にはいつも不合理がある。
それは、合理的であっても、不合理的であっても、全ては不合理の上でのことなので、大差はないということ。
体験することが、違うだけで、本質的なベクトルはほとんど変わらない。
あなたがあなたとして生まれた時から。
合理的にやってうまくいく楽しさもよし。
不合理的(直観)にやってうまくいく楽しさもよし。
…
合理的にやる面白さは、結構やったし、その仕組みを思い出したので、不合理にやる方法にシフトしようと思う今日この頃です。
ややこしいですが、合理的な方法だと分かった上でそこに飛び込む行為もまた不合理なことで、れもあり。
それは、合理的な方法を恐怖や不安から選んでいくということとは、既に違う。
とても高度な不合理とも言える。
そう思うと、逆に面白くなってきたりしませんか。
今の私が以前と違うのならば、どんなところに行っても、今の私に合う人間を周りは演じてくれます。
また、思わぬこともでてくるでしょう。
内勤の仕事を探し入ったら、接客になっていったり、マネージャーになっていったり。
まあ、わかりませんが笑
なんでもいいんです。
今の私に合わなければ、その場所には物理的にもいけない。
…
私が不合理であることは、周りの人は大変迷惑を被りますが笑笑
今のうちにそういう人間なんだということを理解してもらうのがちょうど良いのかもしれないなぁ
とも思う自分がいる。
将来は恐らく、合理的に理解できること、またしていてもなお、それを活用しない、つまり、不合理的な方法によるのが、私なのだと思うので致し方ない。
それはとても魅力的な体験である。
そして、とても楽しみでもある。