なんというか。
どんより曇り空が続いているからか。
停滞しているという感じです。
今に注力しようとした時、特に何もしたくない。
ひたすらに寝ている。
それはそれで良いと思っていても
しばらくそれが続けば、どうなのだろうか…
と思うわけです。
外に出て、歩いてみる。
自転車に乗ってみる。
行ったことのない道を走ってみる。
何か違うなぁと感じている。
じゃあ、北海道や沖縄に行ってみるかと
うーん、そういう事じゃないんだよな…
それはそれで行きたいが笑
内側に感じないから、外側を観てみると
やっぱりそういう事じゃない
ということは、内側にあるわけで。
借りてきた本に立ち返る。
なるほどという言葉を見つけるが
そうではない。
かといって、これをやってみたら?
と言われたことに身が入るわけでもない。
何ともややこしい。
スピリチュアルな知識欲もひと段落し
でも、なんとなくな。
胸騒ぎ、ざわざわするような
そこまでではないような
なんか。
最近、カラスがうるさいんですね。
ネットで調べるとたしかに、繁殖期にあたるから
まあそういうことなんだと思うのですが。
うちの実家では、迷信があって。
朝方のカラスが鳴くのは、人が亡くなったからだ。
というものがあります。
そういう迷信は、証明できないが。
嘘とも言い切れない、何かがあります。
少し時間が経つと、この国は、次から次へと災害があるため、慣れてしまって忘れてしまうのです(災害に遭われ方は当然自分ごとなので忘れることはないと思います)
地震が気になりますね。
(私は、未来予知や予言といった力はありません、1人の人間の感覚の話です)
地球の意識というものについて、スピリチュアル的な方面からではなく、科学者でかつて『ガイア理論』というものを提唱した方はがいます。
ラブロックという方なのですが。
NASAに勤めていた方で、現実的にも実績があります。
簡単に言いますと、地球という環境(土、空、海など)とその上で暮らす生き物をひっくるめて、一つの生命体と捉える考え方。
そうすると、ここからは勝手な創作ですが、地球にあるもの全てが、地球を地球たらしめているエネルギーによって、原子によって、電子によって、物質によって存在し、さらに、そこには、空気のような目に見えないもの、科学では見つけられていないエネルギーも含まれ、我々は、そのほんの一部でしかないと考えられる。
とすると、人間から観て災害と言われるものの本質は、地球が地球であるがために起きているもので、偶然ではなく、必然なのだ考えられる。
人から見ると、命の危険にさらされているが故に、地球が怒っているんだ、もう終わりだと思ってしまうが、そういうことではなくて、地球を一つの生命体と考えたとき、波が漂うように、風が吹くように、そこには因果と地球という生命体の自由意志が働いているだけのように思える。
そして、その因果にも、地球の自由意志にも人の因果と意志が、付かながっている。
これはスピリチュアルなことを言っているのではなくて、この肉体は、誰から、どこから作られているのかという、至極当然なことを思考すれば、分かることです。
この瞬間も、この地肉は、地球にある原子、分子、植物、水、空気が絶えず循環しているし、因果ということで言えば、水を汚せば、その水を人類が摂取しています。
即ち、地球と人は繋がっているということです。
意志は、物質に宿るので当然非物理的にも繋がっています。
なので、地球のどこかで起きている現象は本当は自分ごとではないんです。
地球の意志と深く繋がっている人(感覚が現代文明によって鈍っていない人)は、免疫細胞の白血球のようになんとかしようとするし。
全てが白血球ではないので、役割の中で必然的にドーパミンのようにワクワクすることを提供する人もいる。歌を響かせる人もいる。
存在するだけで、副交感神経と交感神経に調和を満たすような人もいる。
当然がん細胞のようにこじらせた人もいる。
宇宙との対話もいいが、地球との対話も大事ですね。
もちろん地球と対話することは、宇宙と対話することでもあるのですが。
自然に触れるというのは、物理的な自分の故郷に帰り、対話して、情報交換する作業のように感じます。
その情報が即ちエネルギーであり、癒やされたと感じるものであるように思います。
情報で癒されるのは、自分がもともと有った場所、その大元に帰るのですから、実家に帰って親族と話したり、お墓まいりしたり、近所のおじさん、おばさん、友達と会うような感じといえば伝わるのではないでしょうか。
対話した時の話の内容が大事なのではなく、対話という行為、行動そのものに意味があるのです。