最近の対人対応について、変化がありました。

今までは、辻褄を合わせるということに頭を使って、自分がどうしたいかということを蔑ろにしていた。

ここのところ、退職、休職、引越し、入籍と変化が多く、人間関係と環境が一気に変わって、それと同時に、学生の時の友達に連絡を取ったりといった出来事が出てきて、進んでんのか、戻ってんだかっていう状態で、一々状況を説明するのが、めんどくさい(前回、めんどくさいを消すという記事を書いておいてなんだが笑)ものあって、誰にどこまで言っただとか、説明した方がいいのかということを考えるのをやめた。

聞かれたら答えようという程度になった、本質的に他人は私が仕事していないことなど対して気にはならないのだから、言ってもどうってことない。冷たいのではなく、事実そうなのである。


今までしていた辻褄合わせをしなくなっていた。

でも、丁寧な対応はある程度必要だと思う。

会いたくないからと言って、無視はしない。
連絡をしてくれたことには、いつも感謝しかない。その時間を使って連絡してくれたのだから。
逆に、会いたいからと言って、無理は言わない。
必要であれば会えるようになるのだから、何も心配いらない。

ほんの少しの意図をして、繋がるのであれば縁があるのである。
繋がらないのであれば、今は縁がないのである。


最近、社会復帰も視野に入れ始めて行動している。

会社との出会いも人の出会いと同じ、私が意図して相手と会って、今その縁があるのかないのかという状態。

会社は、人の集まりであるので、やはり縁なのである。

今は、私がしばしば意図して、まだその縁がないようだ。

日本と縁がないのなら、海外へ行けばよい。

12年前の就職活動をしていた頃、そんなことを思っていた。できることをやり尽くした果てに、内定も出ないままグアムに遊びに行き、それでもどうやら日本に縁があったようで、こうしてまだ日本にいる。

思いつくことをやり尽くした後、意図とは別に何かに導かれることはあるように思う。

意図する事が、怖れによるものであるなら、それがなくなるまでやり尽くす、燃え尽きるのは、どうだろうか。

何も残らないようで、案外本当の意図だけが残る。思いもしないものが残る。

本当の意図とは、委ねることに似ている。

体が動き意識のあるうちは、今生きているのだから、少なくとも死んではいない。

だから大丈夫だ。

これまでが大丈夫だから、これからも大丈夫ということではない、今大丈夫だから、今は大丈夫だということ。

自分がいなくなった後、自分のことを論じることはできない。きっと体はなく、全てを完全に思い出している世界では、あまりにも無意味なことになる。大いなる答えを知っているのだから、論じることはできない。



恐れがないのなら、放っておいても大丈夫だろう。時期が来れば、必要なことが起こる。
結果より先に行動があり、行動より先に言葉があり、言葉より先に思いがあり、思いより先にエネルギーが動いている。

そのエネルギーは、きっと魂の意図による何か。

もちろん自由意志はあるが、自由意志で動いた時に魂の意図も動いている。絶妙に動いている。

今の私程度の思考では、追いつくことのできないほどの速度で、動いている。


私にとっては、私の身に起き、感じることで、他の人にとっては取るに足らない当たり前のことをこうして自分の言葉で表すことことが、とても興味深い。