めんどくさいに従うのは、とても簡単で要は何もしなければいいということなんですが、逆にめんどくさいを消すというのは、とても難しいように思っていました。


相変わらず、こんな「めんどくさい」ことを考えている哲学するくじらです。


今日は、そんなお話。



ゴミを各ゴミの日に捨てるということが、なぜめんどくさいのか。
その他、料理をすること、食器を洗うこと、洗濯すること、お風呂を洗うことなどをめんどうに感じる人は、結構多いのではないかなと思います。

そう、それはめんどうな作業だと思い込んでいる、刷り込まれているから、めんどくさいのです。



パートナーに言われたんです。

「そんなに時間がかかったり、手間があることじゃないよ」

と。



料理も片付けも洗濯も掃除もやったことがあって、言っても大豪邸でなければ、個々にはそんなに時間がかからないことなのに、めんどうなことというイメージがなぜか刷り込まれているんです。私の場合には

刷り込まれているというのが、ややこしいのですが、これは昔の自分がそれらをやらないことの理由をその都度、めんどくさいという言葉でイメージ付け(超程度の低い偶像崇拝的なもの)していく中で、自分で刷り込んで、思い込んだんだと思います。



私は、まずこれらに気がつきました。

気づいたらもう解放されました。



あれっ、これって何かに似てるなぁと思った方いるかもしれないですが、いわゆるカルマと一緒です。

仕組みに気づいたら、解放、許し、受け入れているんですね

それが自分なんだと、自分だったんだと。




ただ、これらに気づくための要件は、どうしてもあるように思います。

その要件は、自分の体力が戻ったから出来るということです。

この辺の考え方は、時間があるんだから出来るだろと感覚的には当たり前と言われるとその通りなのですが、そもそも気づくというのは、圧迫とか緊張のあとの隙間、解放の時間がないと気づけないことが多いのです。

社畜と言われている会社で生きている状態では、気づきようが無いのです。
だって、仕事が一番ですから。
仕事の予定が、正義なのですから。

ほかは、二の次で、付属なのです。
仕事をしていれば、そのほかのことは多少ダメでも許されるのです。そういう宗教であり、信仰なのです。『仕事だからしょうがない』教。

かくいう私もこの宗教に入信していました。


私も仕事をバリバリやっているときは、本当に出来なかった。。。
だから、外食して、まとめて洗濯して、シャワー浴びて、ゴミが溜まってとそんな日々を4年ぐらい過ごしてました。
仕事が中心でその他がままならないそんな感じです。
現代文明の闇であり、病みであると勝手にそんな風に思います笑


あっ、もちろん全てができている方もいます。
出来る、できないではなく、個人差があるということが前提の話で、それぞれの人がそれぞれの出来ることを受け入れていくという考えで書いてます。
個体差はあります。
ただ、比較をやめればその差は無くなります。


何でも出来る必要はないのです。

私も「めんどうくさい」を解放したから、何でも料理出来るか?と言われたら、ノーです。

ただ自分にとっては、料理も化学と同じなので、型がわかればあとは組み合わせで出来ると思い込んでいるので、もう大体何でも出来ます。

でも、完璧ではありません。

プロから見たら、5%も出来ていないと思います。

でも、私から見たらそれが100%です。
その100%が、日々広がっていくだけです。

そう言った意味では、ゼロか100の世界になります。




ある方のセッションを受けた際に、「何があっても誰に対しても100%全力で五臓六腑から感動してますか?」言われました。

「自分はそんなことはないなぁ」と思いました。

で、その方は、「本当に気づくと、全てにそう思えるよ」って、おっしゃっていて、自分は「ああ、それが統合されている人の感覚なのかぁ」と思いました。


場面によって感動や感謝に差がある感覚がある人というのは、それが自分が思っている感動や感謝でなく、他者の価値観での感動や感謝に見あう感動と感謝をしているに過ぎないんだと思います。
もちろん心から感謝、感動することもありますが、その瞬間、隣の人の様子を見たり、過去の自分の現象と比較してたりします。


今回も書きながら思考があちこちといってしまうので、分かりにくいかもしれませんが、お付き合いください。多少、整理して書くように善処します。


これも「めんどくさい」という概念、信仰に似ているんですが、多くのひとが一般的な「感動」「感謝」という概念に引っ張られ、刷り込まれて、思い込んでいるんですね。


私が言いたいのは。自分の「感動」「感謝」は、全部自分固有のものでしかなく、常に100%なんです。差は生じ得ないのです。
もし、差があるとしたら、それは過去の自分の感動や感謝の現象、表現と比較したり、共有した誰かの感謝や感動の現象、表現と比較しているに過ぎません。
今しかないのですから、いつも全力で「感動」「感謝」しているんです。
逆にいうと、いつかと同じ感動と感謝は起こり得ないのです。
すべて固有の今にしかないのです。

料理の話を書きながら、そんなことを思いました。
料理も私にとっては、いつも100%。
いつも100%以上でも以下でもない。



「めんどくさい」の話をしてたんですが、既成概念の解放の話になってしまった気がする笑笑


何度も書きますが、言葉や文字はそこにイメージや思いが重なり、思い込みや信仰になり、自分や他者の現象に対して力を持ちます。

気づくということは、自分で刷り込んだ他者の概念に気がつき、自分の心から望む概念に作り直すということでもあるように思います。



これを見直す方法は、簡単でこのブログの頭に戻るんですが、『他人に指摘されて、感情が動いたこと』がまさにそれです。



いやー見たくないですよね。嫌ですよね。



でも、考え直してやり直してみると確かになってことは多いです。もちろん全てが当てはまるわけではないですよ笑笑
気をつけないとただの依存ですから、丁寧にね。

指摘されたことを相手の言う通りにすると言うことでもないので、その言葉があくまでヒントになっているというだけです。

そこから発展することもあります。考えて行動した結果、同じこともあります。


で、自分の中で言葉に出来たり、腑に落ちたとき、それは自分の宇宙になります。

ある人の言葉でいうと、全ては愛であり。

ある人の言葉でいうと、全てはYESであり。

ある人の言葉でいうと、全ては○であり。

ある人の言葉でいうと、全ては感謝であり。

ある人の言葉でいうと、全て大いなる存在との繋がりである。

ということに気づくということですね。