現実世界に違和感を感じつつ、それでも映画「GATTACA」を観ながら自らを鼓舞し、何かに為ること、何かを成すこと、を目指した。
そうでなければ、後々人達に何かを伝え残すことはできないと、焦燥の中にいた。

20代は、あまり本質的でないことに取り組まなくてはならない絶望感のかな、それでも関わる人のために、それなりに悩み、行動していた。
しかし、それがどれもどうしようもないことのように感じていた。ある一定の会社が儲かっていること、殆どの人が日々の返済に思考を奪われていることに。
世の中のためにあるはずの仕事や事業というものは、個人の繁栄のために、無知なるだれかを犠牲にしている。
その縮図を観ていたように思う、あなたのためといいながら消費を喚起し、仕事だからといい取り合い、そして去っていく。

人と接する度に消耗する何かが、資本主義にはあった。その主義思想が現代の過剰な欲望という大罪に免罪符を与えている。
人が戦争を行なっている時代、「これは命令だから」という責任の転嫁、「割り切り」で、人を殺していた。
それと同じことが、現代の経済でも起こってる、「これは仕事だから」という言葉は、これに近い。
仕事と戦争では、国家的危機という大義の違いがあるという意見もあるが、日本は経済的思想も西洋に取り込まれた、これは「死」に直結しない国家的危機のようにも感じていた。


そんな中にあっても、事業を行うために大切なことは何かを常に考えていた。

問題は常に人にあった。

それは事業を行う人の人格にある。

その当時の私は、「哲学」をもっていること、それを現実に落とし込むこと、自身を律すること、これらを主として、それが「経営」という「真理を追求」を事業として断行できる人格を持つことが大事だと思っていた。「利益」とは何なのか。本当の利益とは何なのか、上司に問い、自らに問うた。
その問いの中から生じる社訓こそ、社員が立ちかえる指針として重要であると思っていた。

しかし

東京に出てきて、日本人はその人格を形成する哲学を持つための前提があまりにももう崩壊していることに気づきました。

戦前まで受け継がれてきた家系という土台を失ってしまった。

人が、哲学を得る土壌は、その家系、家庭の影響を受ける。もちろんこれは肉体、魂魄の魄の部分であるので、魂の経験を元々引き出すことができる人であれば当てはまらない人もいるが、そのような方、稀である。今、増えつつあるが。

普通は、魂部分の経験を忘れてしまっているので、家系、家庭の影響を大きく受ける。

戦前まで受け継がれてきた先祖のしきたりは、言うなればその家系特有の癖、またその癖に対する対処法を含んでいた。

そこに良い悪いはないのです。

そのしきたりに従っても、従わなくてもよくて、その下にある家系ごとの土台が大事なのです。


自由とは、制限が無ければ、それが自由であることを実感することはできない。

この場合、制限という言葉になっていますが、土台であり、還るべき場所であり、拠り所でもあります。
目に見えるもので言えば、実家であり、母校であり、仲間もそうです。
さらに、3次元にいる限りは、常に体という制限を受けます、だから自由を実感できるのです。

そういった点では、自由を感じるためにしきたりに従わなくても良いのです。
でも、今はしきたりも分からない、だからそれが自由だと実感できない。

こと、哲学についていえば、制限から自由に向かう時、それぞれ固有に獲得していく思想、原理、主義であるので、土台がなければ哲学ら育たない。哲学は、自由ですが、その人の固有のものであるという絶対条件がある。

「こうすれば売れる」という方法しか見えなくなってしまうと、それは哲学ではない。それは誰かの哲学の結果です。その人の思想の範囲から外れたらもう終わりです。
その時、なぜダメだったのか悩み、これは合わない、ここに改善の余地があると判断と行動することがその人固有の哲学になるのです。
哲学は難しいようで難しくはない。
皆やっていることです。ただ、元の立ち位置がないので、その体験の拠り所がない、よって言葉通り身にならないのです。



「土台が無かったら、どうしたらよいのか。土台を育てるにはどうしたらよいのか。」

この問題は、日本ではこれから50年。
、世界的には200年ぐらいかかるだろう。

この問いは、スターシードと言われる方が、全体の覚醒、アセンションという役割を担っていくにあたり、3次元に落とし込むにあたって、継承していくためどうしてもぶつかる問題であるよう思います。




一つ希望を残していくと、私の感覚ですが。

本当は「土台」には、覚醒、アセンションを感覚的に感じることができる方法が多く組み込まれていたように思う。だから、そのDNAを起動できれば、できない人はいない。特に日本人には。

その土台となる家系は、縄文日本人の始まりからずっとDNAで繋がっているからです。
日本でも歴史上多くの争いもありましたが、失われることなく、言葉でもなくてもその生き方そのものに、DNAの中に刻まれてきました。だから、彼らの歴史を知り、呼応すれば、それに感応した子孫がそのDNAを起動し、承継することができる。

答えは、近くにある。


現代人が忘れてしまったことは、前世や過去生、宇宙の記憶だけではない。
肉体としての、DNAとして紡がれた経験の記憶もそうである。

過去生の記憶だけを追うのではなく、自らの出世の家系を追うこと、それもまた大事なのである。


今日も勝手なことでした。

ありがとうございました。