「平成最後」を考えて、書きながら「令和」を考察してみたいと思います。
私の生まれは「昭和」です。
「平成」を迎えた時は、まだ小さく新たな時代に対する思いを考えることなく、踏み込みました。
名は体を示すと言うように、何事も言葉を大事にして、意味を込める日本古来の考え方は、とても好きです。
また、こうした切り替えのときを新たな希望をもってお祝いし、これまでに感謝するという考え方もとても好きです。
これらは、いずれも「細部に神が宿る」という祈りと感謝が本来的に日本人のDNAに刻まれているからではないかと思います。
日本特有の四季の変化がDNAに与えた微細な変化を感ずる感性が、すぐそこにある自然宿るもの(神)を思考し、畏怖することを可能としたように思います。
日本人が、他国の多くのことを受け入れ、祀ることができるのは、それらの中に神を観ることができるからなのでしょう。
その性質は素晴らしいことです。
ただ、現代においては、「神を観ている」のではなく、「人を見ている」つまり、人間にとってどう作用するかという視点で何でも受け入れてしまい、結果「神を観る」という能力を麻痺させてしまっているように思います。
もちろん現代文明による便利なものに感謝する点もあります、でも、それは人間の機能に対する「便利さ」への感謝でおり、その対象として神はいないのです。
少し違う言い方をしますと、「自らの肉体」としての視点で選択しているので、「自らの内側」に問うてはいないと言うことです。
自らの内側である神に問いかけていないのであれば、対象にも神を観ることはできない。
「平成」は、その変化を問う事象が沢山ありました。
バブル経済、地震、細菌、化学物質などいずれも目に見えないものが原因です。感覚が麻痺してしまった日本人にどれだけ、伝わったかのか。それはわかりません。
私自身長らく麻痺していた一人でした。
日本人が取り戻すことが大事なのは、その「微細の変化を感じる」感性にあるように思います。
自然の中で生きてきた人が、ここ100年程度で造られた人工的なものに溢れた世界にいることが、果たして自然なことなのでしょうか。
そろそろそれが、不自然なことに気づくことが肝要です。
そういった意味では、新たな年号「令和」が万葉集から引用されたことは、とても良いことだと感じます。
万葉集は、四季の変化や心の機微を57577のリズムの制限の中に無限を込めることのできる詩であり、日本独自の文化です。
私自身としましては、令和に「内と外の機微の変化を感ずることのできる古来日本人の能力を取り戻すための破壊と再生」を希望する素晴らしい年号になることを願っております。