とある方の本を読んでいると
自分の子供の頃の考えを良く思い出す。
小学生の時、道徳の時間に戦争や平和の話がよく取り上げられた。
なぜ、戦争はなくならないのか?
この回答はすごく難しい、今でも分からない。
けど一人で結論づけることは、簡単だ。
「こういう風にして、みんなでこうすればいい。」
おそらく誰もがいろんな角度から「みんな又は大多数がこうすればいい」ということを主張する。
でも、ここにとてつもない危険な思想が、込められていることに気づいていない人も多い、人はこれほどまで残酷で純粋なのです。
「みんなが、こうする」ということは、「みんなが今のあなたと同じ思考で行動する」ことに他ならない。
これは、独裁なんじゃないかと自分は思った。
さらに、危険なことに戦争を悪と認識した場合の解決策たる自分の思考は、間違いなく正義だという思い込みが生じる。
これはもう手がつけられない。
この状態で他者と議論すれば、衝突しかない。みんな正しさの中にいてでたがらないのだから、当たり前こと。
そんなこと言っていたら、議論にもならないだろうと言われるかもしれない。でも、議論にすらならなくてもいいんです。
それは、公的な組織や民主主義たる世界と対する場に自分がでる必要になった時で構わない。
本当にそのことに心打たれた人は、言葉もなく行動しているから。そして、その結果の中で考えている。考え続けている。
と思ったとき、そこまでできない自分としては、言葉にすることができなかった。行動することもできなかった。
けど、今振り返るとこの時から集合的無意識的な感覚を自分の中に持っていたため戦争がなくなることを祈り、また何が原因なのかを考えながら生きるということを選択したんだと思う。
「考え続けることができる」これだけでオーケーなんだと小さな一歩なんだと慰めと小さな自信を持った記憶がある。
答えのないことを考え続けるということは、とてつもない苦痛が伴う、けれども多くのことに気づくことがきる。
その思考を持って日々の物事に向かうか向かわないかは、大きな差を生む。それは自分に対しても、意識の集合体たる世界に対しても。
文書にすると少しカッコつけた感じになってしまったが、全くカッコよくない、なぜなら思考という行動以外はしていないから。自分はこのことに考え、悩むことしかない。
この苦悩を続けることができるという性質が自分の中の憤りを成熟させ、どこかで誰かのために行動する力になるのかもしれない。
今日も勝手なことを書きました。
いつもありがとうございます😊