小学校は、歩いて20分ほど自宅の前の道を真っ直ぐに歩いてすぐのところでした。
というか、田舎なので、メインの道路がそれしか無く。非常に分かりやすい地形でした。
ヘルメットをかぶり、班になって、一列に並んで通いました。
小学校の裏がすぐ海で波の音が聴こえてきます。木製の大きなアスレチックがあるのが、特徴の小学校でした。
担任の先生が、若い男の先生だったのを覚えています。とても爽やか先生でした。
この頃の自分は、学校ではおそらく一言も発していなかったように思います。
男の友達もいませんでした。
いつも女の子と一緒に帰っていたし、折り紙大好きでしたし、おままごとにも全然付き合えました。そのことに違和感もなかったです。
帰ってきた後も近所の男の子の家を通り過ぎて、その女の子の家に遊びに行っていました。
小学2年生
担任の先生は、戦争中台湾で育ったおばあちゃんでした。いつも昼休みに白髪をとってあげるのが、私の仕事でした。
クラスがかわり、ようやく男の友達ができました。
全く自分から話をしない私を仲間に入れてくれたのが、今でも不思議です。
エアガンやミニ四駆やプレステが流行っていて、みんな夢中でした。興味はあるのですが、欲しいというところまでいかず、いつも友達のやっているのを見せてもらって、「凄いね〜」「面白いね」って本気で思っていて、それだけで満足でした。
そもそも自分の小遣いで買えないこともわかっていましたし、それが辛いとも思っていなかったです。
そんな感じで、参加しないけど、呼んでもらえるという不思議な存在でした。
この時期辛かったのは、門限やお泊りについては、厳しい家庭だったので、友達の家に泊まりに行きたくて駄々をこねて、友達のお母さんも説得してくれましたが駄目だったことです。
このとき、「うちはうち、よそはよそ」ということを学びました。
このころ父は職場が近かったので、いつも夕方には自宅にいました、門限までに帰っていないと大変です。
一度目は許してくれますが、二度目はビンタでした。
その時の父の顔は今でも覚えています。
泣きながらごめんなさいしても、ビンタは決行されます。
でも、父も親になるために必死に躾をしていたんだと社会人になって気づきました。
叩く方も辛いんです。
今となっては本当にありがたいことだと思ってます。
時間だけは厳しい人でした。
授業では、掛け算の暗記があり、ムキになって覚えました。皆さん掛け算の歌があるのしってますか?
それを延々とかけ続けて、覚えました。
小学3年生
学校で怖いと有名な女性の先生が担任になりましたが、ご結婚され、ご出産ということで、半年は、若い優しい先生でした。ラッキーです。
後半復帰された先生は、噂ほど怖くありませんでした。自身が子供を授かったことで気づいたことが、あったのだろうと子供ながら思いました。
この頃は、あんまり記憶に残っていることがないですが、家庭科の授業で、先生の話を無視して、近くにあったコンセントに裁縫用の針を突っ込んでいたら、電流が走り死にそうになりました。これはその当時誰にも言えませんでした笑
勉強ができるわけでも無く、運動ができるわけでも無く、面白いことを言えるわけでも無く。漫画でいうとこのモブ中のモブ、ザ人畜無害。でもなんとなく生きていました。
放課後なんとなくサッカーやって帰って、夕方の「あぶない刑事」の再放送を見て、ドラゴンボールの再放送みてというのが、日課でした。小学6年生までずっと。
長くなったので、とりあえずここまでで
4年生からは次にかきます。
この辺りから人畜無害から変化していきます。
ありがとうございます。