「人は見たいものを観る」
大学時代、お世話になった先輩と良くそんな話をしていたのを思い出しました。
もちろん、私達も見たいものしか見てななかったのですが笑笑
この言葉の本質は、自分の周りで起きた現象の中から自分の見たいものを観ているのではなく、自分の観たいものが現象として起きているという事です。
現象は認識されることで確定する。
認識されるまでは確率でしかない。
人が確率を認識することによって、その人の現象が確定するのである。
確率は、パラレルワールドという言葉でも言い表せる。
この確率=パラレルワールドを数字で表現したのが、シュレディンガーの波動関数であり、虚数の世界である。
では、この確率から自分にとってより良い現象を選択するためには、どうしたら良いのか。
確率は、波動であり、周波数なのでこの周波数を自分の心地よいものに変えれば良いのである。
自分が心地よいもの→自分が心地よい状態になる=自分の好きなことをする
これがよく言われる「自分の好きなことをする」ということ。
流れでいうと
①自分が心地よい周波数に変化する。
②自分の心地よい周波数が、確率の中から自分の心地よいものと繋がる。
③周波数=確率を認識する。
④現象となる。
これが「観たいものを見る」ということ。
でも、この「好きなことをする」というのが上手くできない。私もそうです。
それは、雑音が多すぎるからです。
雑音とは、自分が発している周波数ではないものです。
自分が発しているものもありますが、その大本は、周りの雑音から始まっています。
周りからの雑音は、人からによるもの、物からによるものがあります。
掃除や断捨離がよく言われている理由もこの辺りあるように思います。ものを処分すりことで、その雑音をなくせます。
道具なしで自前で周波数を上げるにはどうしたらいいのか?
笑顔
明るい声
音楽を聴く
美しい絵を観る
偉人の書を観る
本を読む
自然に触れる
瞑想
祈り
歌を歌う
などがあります。
…
すみません。
書きながら考察や言葉が降ってくるため、話がずれているようなところもあるかと思いますが、ご容赦ください。
周波数をあげる方法には、2つの観点がある。
①今の状態にプラスして、上昇させるという観点。
②今の状態の雑音を解放することで、抑えられていた周波数を本来の周波数にするという観点。
うーん、自分で書いてみて、また考察。
…
②がほとんどなんじゃないかなーって思いました。
人の魂は、高次元から3次元へ降りてきているので、本来の周波数に戻るというのが正解ですね。
プラスするというのは、不足感から来る二元論的な思考でもあり、人間はもともと完璧なので、①はありえない。
雑音の解放方法は、感情を体験し、味わい、受け入れ、解放するというのが一般的ですが、本当にそれだけなのでしょうか。
ここから禅問答のようですが、思ったこと書きます。
雑音をなぜ雑音だと思うのか、それは「雑音を自分ではない」と認識しているからです。
でも、考えてみると雑音も同じ自分の宇宙にあるので、自分なんですよね。当たり前のことです。
もともと無=〇(ゼロ)から、無から有の連続である周波数が生まれ、沢山の周波数に分かれて、各々の自分の宇宙(各々が認識する世界)が存在しているので、自分でないものなど存在しないのです。
カルマなんて本質的にはない。
全て自分が発したもの。
カルマという仕組みを信仰によって支えている人が、認識した現象に過ぎない。
こんな思考もありなんじゃないでしょうか。
過去の人たちを否定するわけではありません。その仕組みが事実とされた歴史もあったことを認識して、なお、悟りの本質が解明されつつある現代世界において、そういう認識も可能になったのでは?という提案です。
なにせこの世界には、絶対なんかありませんから。
制限を作っているのは、いつも自分です。
過去の多くの人が信仰してきた制度や考えは、その人たちのものです。
自分の世界を形成しているのは、自分の周波数と確率の出会いによる認識とそれによって生じる現象の集積です。
人は「観たいものを見る」のです。
最後に、「観る」と「見る」に込めた私の定義を書いて終わりたいと思います。
「観る」は、観点という言葉で使われているように、周りから見るという視点に関する意味合いを感じる。そこから派生して、本質を見極めるそんな意味が込められている。そのように思う。
ただ単に見るのではない、本質=自分の周波数によるもの=自分を見つめるという意思を持って見るということ。
「直観」という言葉も特に好きである。「ちょっかん」には、「直観」「直感」「直勘」があるが、私は「直観」を大切に感じる。
「自利利他」を実践された飯塚毅氏が、この「直観力」をよくお話されていたことを思い出す。
端的に言えば、一部を見て全部を見通すようなもの。
顔をみて、生まれから性格、適職まで見通してしまう、人相学もその1つである。
話がずれたが、私の「観る」にはこのような思いが込められている。
「見る」は、ただ単に見ることであり、即ち、確率をの1つを認識して現象とすること。
ここまでお読みいただきありがとうございます。