ここ最近、腑に落ちたことやそこに至るまでの過程について、啐啄の機を用いて記事にさせていただきした。

しかし、腑に落とすためには、どうしても個人差がでるため、どうすれば良いのか、自分が何を思考しているのか、分からなかったのです。

それが、今読書している本から理解を得ました。


感覚、体験、知識を重ねながら、質問と回答を繰り返す(自問自答)ということです。

文章にしてみると簡単で当たり前だったなぁと自分でも思うのですが、私は私自身に質問と回答を繰り返していたんだと改めて気がつきました。

腑に落ちるとは、自身が理解し、納得することであり、その説得は自分でしなければならないものです。

他人の文章や言葉で理解を得ることはあっても、納得できないことってありませんか?

私は昔からよくありました。
大学生の時も友達から良くからかわれました。
「出た!くじらの理解できるけど納得できないやつ笑笑」なんて言われてました。

化学の世界では、本来、理論の言葉の定義は絶対なのに、そこに納得できなかったんですね。


話を戻します。

理解はできても納得できないのは、その方が使った言葉の中に自分の実感や理解を得ていない言葉、即ち自分の言葉でないものが含まれているからです。

一般的に定義されている意味合いは知っているため、その方の話の意味は一応理解できるのです。でも、それは一般的な言葉であったり、その方の定義された言葉であったりするため、自分にとっては腑に落ちるところまでいきません。

自分の言葉は、自分で獲得することが大事なのです。
じゃあ、他者の定義された言葉ではいけないのかというそうではありません。
そこを獲得するために他者の言葉が必要なのです。

たくさんの感覚と体験と知識、言葉を得ながら、自分なりの表現、言葉を検証していくのです。

その繰り返しを真摯に取り組む時、腑に落とすことが可能になります。

そして、腑に落ちるまでの時間がどんどん短くなります。





以下に、もう少し深く感じたことを書きたいと思います。

ここまでの記事を書きながら、読み返しながら思ったのですが、これがいわゆる自分の宇宙を持つことの一つの現れなのではないでしょうか?

つまり、自分の宇宙を持つとは、自分の言葉を探し、持つこと。

腑に落ちました!(整いました!風)



以下、その他の副作用について

他人の言葉に触れていく中で、面白い作用もあります。

その方の使った言葉から発生するイメージが人それぞれ違うということは、当人にとっては、思いもよらない気づきを誘発することもあるということです。

例えば、「神さまは…」と私が喋り始めた時、どんな話が続くと思いますか?

神さまと私の関係、ギリシャ神話、日本神話、神社、神さまと仏様の関係などなどいろんなものが考えられます。

例えば、この時相手の興味があるものが西洋の神様であって、私が日本の神様の話を始めたとします。

するとお互いの興味のある神様の定義、範囲がずれているので、話が噛み合わないというか、うまくいかないような気もします。

しかし、話を続けていく中で

私「結構、日本神様も感情的なんですよね〜」と言った時、相手「西洋の神様も結構やりたい放題な神様いるなぁ〜」と思ったりすると、「どこの神様も人間ぽいなぁ」と思ったりして、次の疑問が浮かんだりします。

「なんで、西洋でも東洋でも神様はこんなに人間らしいんだろう?こんなにいっぱいいるんだろう?ギリシャ神話と日本神話に共通点があるんじゃないか?あれ?それぞれ何年前の話だっけ?etc」

↑これが自分への質問なんですね。

ここから、本にはこう書いてあったなぁ、有名な神主さんはこう言っていたなぁ、この間行った神社にこう書いてあったぞ、守護神がこう言っていたなぁ、死んだじいちゃんはこれが好きだったなぁとか、知識と体験という回答を得ていくことになります。


そうすると、結構意外な方向に向かったりして、神様って宇宙の言い換えなんじゃないか?宇宙は無から出てきたんだから、無とも近いきがするなぁ、誰かが言っていた死ということともにているぞ、あー、あの人が言っていた多次元の一部なんだという感じに、自分なりの定義が作られていきます。


そうするといよいよ腑に落ちます。

スピ系のほかのブログを読んで、別の定義でされていても、あーこれのことかとわかるようになります。

こうして腑に落ちるということは、私は定義完了しました。
※この定義は随時更新されます。



ここまで読んでいただきありがとうございます。