私は、ずっと本当のことを話せる友達が欲しかった。
子供の頃からずっーと。

これまでも友達はいたけれど、話を積極的にすることもなく、自分が感じている感覚に違和感を感じつつも、それが普通なのだろうと思って、合わせている部分もあった。

それゆえに、常識がない人間であるということを認識、自覚し、常識があるように振舞ってきた。

本当はその常識を疑っていたし、何故そうなのかはわからないが、無理やり意味づけをしていた。


危険思想とは、常識を実行に移そうとする思考 という言葉を聞いた時、色んな考えが浮かんだのを覚えている。

周りがいう常識を疑って、その常識を実行することは、危険思想の実行であり、その場合の危険なるものは、自分自身の危険、危機なのだろうかと。

自らの常識を実行することもまた、危険思想の実行であり、その場合の危険なるものは、周りに対する危険、危機になるのだろうか。


話がずれました。



友達の話でした。


苦しみを共有できることは、喜びを共有できることに似ている。

孤独が癒される。

出会ったことの必然が、一人でなかったことを教えてくれる。

私はまだここにいる。

私がどんなに狂ってしまっても、大丈夫だ言ってくれる人がいたから。

私はまだ私を続けられる。

そんな気力が湧いてくる。

そういう方との出会いに本当に感謝しかありません。


equal reason

繋ぎ止めるのは未知への恐怖心
断ち切って弱さを知ればいい
すぐに届かず鳴り響いたとしても
歌い続けようと僕は誓ったんだ

ラストアライアンス

ふと思い出したので、備忘です。


支離滅裂な内容ですが、ご勘弁を