大学生になり、一般に言われる自由を手にした頃、私は周りが言う青春と言われるものを謳歌しようとは、思えなかった。
(負け惜しみではなく)

例えば、人並みに恋愛をしたいとは思ったりはしたが、毎週のように合コンをしたり、カラオケ行ったり、ゲームセンター行ったり、風俗行ったりしたいとは、特に思わず。
学生の本分は、学業でその次にバイトや恋愛などを楽しめば良いという風にしか思っていなかったし、事実そのようにしか過ごしていなかった。
かといって、糞真面目に毎日図書館に行ったり、研究室に質問しに行ったりするわけでもなく。
なるべく授業の中で完結するように学び、試験で8割取れれば良いというような考えで日々臨んでいた。

そんなその当時の私の心の中を占めていたものは、覚悟を決するというものを得るにはどうしたら良いのかということだった。

大学を卒業を間近にひかえ、社会人になるということが迫っていた自分にとって、これから自分が何をするのかということが全く見えていなかった。それは、その当時の日記を見てもわかる。その内容はとても漠然としていて、中身のない、だが何かをする、したいという衝動だけがあったことが感じ取れる。しかし、いつも手段に終始していて、目的にあっては誰かの受け売りの事柄しかなかった。そして、いつも何かを成し遂げる覚悟を欲しがっていた。


こんな話を友達にしても伝わらない事は分かっていたので、話題にした事もなかった、もしかしたら分かる人もいたのかもしれないが、10年後の今振り返っても伝わるのは、おそらくその当時私を導いてくれた先輩だけだろうなと思ってしまう。そのぐらい自分の特殊性は分かっていた。



私は、いつも漠然とした焦燥を感じていた。


そして、それを何かに熱中するフリをして、誤魔化していた。
去年になって、その誤魔化しの一つであった資格試験のための勉強に終止符が打たれ、いよいよ誤魔化効かなくなったように思う。特に霊的な感覚が強くなってからは、試験勉強のやる気もなく、ぎりぎりのところで形にして、試験に臨んだ。私は疲弊していた。試験にも合格させられたというか、いい加減その試験卒業しろというような感覚があり、実は自分で合格した気がしていない。もちろん合格レベルまで勉強してましたが…


で、今年から今日まですでに興味を失った仕事そっちのけで自身の本質的なところと向き合わされています。

話が長いですね。
書きながら、これもこれもと思い出して書きたくなってしまうんですね。このブログは、自身を振り返ること、その記録でもありますので、ご容赦ください。


やっと本筋なんですが、わかったんですよ。覚悟を決する方法がね。
大学生の当時はそれがなんとなくぼんやりとしかわかってなくて、やりかけて終わってました。本質がりかいできてなかったんですね。


それは、まず宿命を知るということであり、そのために本(古典、又は尊敬する人が紹介するもの)読むということです。

言葉にするととても簡単!笑
結構誰でも言ってる!笑
自分で書いててそう思った笑


少し自分なりの解釈を説明すると
覚悟をするということは、人生において自分が為すことを決めるということです。
自分が何を為すのかということについては、当然そこに自由意志がありますが、その自由には制限やルールがあります。その制限やルールを確かめていくと自分なるものがぼんやりと残り、覚悟の対象が見えてくるのです。
年齢であったり、国籍であったり、性別であったりと…その制限やルールが、宿命で、その人の命に元々又は過ぎ去ってしまった結果今の時点で宿っているものです。

その宿命を知る方法が、本を読むということです。
自分の生まれを知る。自分の国を知る。他他人を知る。他国を知る。
自分の、国の、宗教、科学、哲学、芸術、文学を、問わず。

そうすると自分の中で全てが繋がっていく事柄が見えてきます。
それにとてもワクワクします。
自分固有の物事の繋がりと連続、ドラマというか、そんな感じです。
そしてそれが明確になればなるほどにそのワクワクの先にあるものに自然に進むことになるのだと思います。私もまだまだ全然そこまで言ってませんが、多分その感覚で間違いないです。

そして覚悟を決するのは、その事柄が利他に繋がった時ではないかと思っています。


人は自分だけのために生きられない。正確にはどんなに自分のためにと思ってやっていることも誰かのために、なっているので当たり前のことなんですが。他の誰かがやらない誰かのためになること=固有の使命のために行う利他への確信が覚悟を決することなのだと思います。


最後に、私の学生時代からの漠然とした焦燥の正体は、何かというと、それは、何が自分なるものなのかわからない不安とそれを解決するためにどうしたらいいのかいつまでもわからない焦りでした。


やっと分かりましたよ。