浄化するべきものが、もしあるとしたら。


それは、自らの中の汚いところではなく。


それを汚いと認識している思い込みであり、そう思い込まされている概念にある。


「汚いことがいけない」ということではなく、「どうして汚いと思ったのか?」「どうしていけないと思ったのか?」


その概念の借用と思考停止からの判断(認識)にある。


今、その『既成』の概念が崩されているという社会現象の中で、多くの人が、知らず知らずのうちに、何が正しいのかを問われているように思う。


それは、正しさを見つけるのではなく、自分の中で正しさを養うという以外にはない。