高橋和巳の『悲の器』を読み終えて あらぬ飛躍のようにーー対極に存在する と思えたーー福永武彦の代表作のことを思い浮かべた。
もちろん違いはあるーー『草の花』の語り手は作者の実像を踏まえて読んでもおかしくないが、『悲の器』は違っている。高橋和巳は正木典膳ではない。政治イデオロギー的に見ても右派に分類される正木と 六十年代の政治的季節の思い出に蘇る高橋和巳のイメージとは対極的位置にあるからだ。高橋はどちらかと言えば左翼シンパに属していると思われていたし 性格も正木のように論理の兜に覆われた剛直性はなく、状況に流される優柔不断さが時代の壁にぶち当たり自滅して行ったのだから。(注釈・1)
とは言え 破滅型という意味では共通していた。より敷衍的に考えてここに福永の『草の花』の主人公を加えれば、戦後文学のある種の最も象徴的なヒーロー群の経緯を辿ることができそうである。
福永のことはここではこれ以上言及しまい。
『悲の器』のことであるが、これは日本近代インテリゲンツィアの戦前〜戦中〜戦後を統一的な脈絡に於いて描いた問題作 傑作であることは確かであろう。私は三十歳前半でこのような書を書けた和己の老成ぶりに驚く❣️
(注釈・1) フェミニズム風の論評のなかには 作者と作中人物を同一緒して 高橋の男尊女卑的倫理観を指摘する向きもありようだが、むしろ己が性向をこそ作品のテーマとしたのであれば、高橋個人とは独立した作品を文学として読むという営為を怠っているとも言えよう。むしろ己の個性や性向 弱点を如何に対象化し、時代と歴史に関わらせたか?と言う点にこの作品の最大の意義があるのだから。
