『あん』とは あんこのこと。どら焼きでほんわり柔らかな生地に包まれて出てくる あの あんこの事なのですね。





 自治体による年に数度の人権に関わる映画鑑賞会です。800席ほどの観客席はほぼ満席でした。


 この映画は らい患者の内面の問題に一歩踏み込んで表現しました。但し、何故この時期にらいの問題を取り上げるのかの制作者側の主体的モチーフは若干弱かったと感じましたが、何もそこまで難しく言わずとも あらためてらいを始めとする社会的弱者の一端一例を啓発する意味は十分にあったと思います。と言うのも社会的不寛容さが今だに容認されて行くかに見える社会の構図は強固で ネット社会やメディアの均質化の進行に伴い 口では寛容を解くものの 世間と名指された視覚の構造はーー映画で描かれた一斗缶入りの業務用のあんこのように定型的且つ効率的で同じ見方をする人間ばかりを生産/再生産する画一化社会になりつつあるからです。


 二つ目は、らいの患者であるなしを超えてーー例えば、どら焼きのあんこ造りと言う一芸に秀でる事の意味に就いてーー。

 一芸とは人を扶と言う事の意味に於いて。なされた事が誰の目に見ても偉大な業績であった場合に限らずーー例えばあんこ作りのような些事であるにも関わらず そこには自然との交感 生きていることの嬉び 生きることの意味が含まれてあること。お婆さんが如何にして耐え難き囚われの囲いの中にあってさへ、一芸は神に通じると言うミステリアスな神秘中に生きる事の意味と悦びを見出していたかを。さらにはーー

 誰もがそのような才能と環境に恵まれるわけではないけれども、そのような人との出会いを期待しながら生きる事は誰しもが出来る筈です。映画のなかでーー例えばあん造りを通して大豆があんこになるまでの履歴をヒロインのお婆さんが想像するように 物事には全て意味があると言う事を理解する機縁になり得る筈なのです。固有な人間になるとはこの微妙なサインを見逃さない事です。意味とはまた言葉を理解すると言う事と同義であり 自然との交歓の世界もーー風のそよぎ 花の美しさもまた 言語によって保証され可能になるのです。

 それが三番目の意味 この世に生きて来て 例えば何かになり得なかったにしても この世に生きて感じたと言う事自体が素晴らしいeventーー出来事であった〜しかも奇跡のような!と映画は主張するのです。

 このメッセージが ポスターにもあるように映画人樹木希林最後の映画であると紹介されていましたが、彼女がこの世に残した最後のメッセージだと思えるのです。

 しかしながら私たちがこの世に生きるとは 同時に何かに囚われて生きると言う事でもあります。映画のなかで描かれた籠の中のカナリアのように!或いはらい隔離病棟の患者たちのように!らい患者の隔離と言う極限態を描く事で それぞれの脇役たちの人生も 大なり小なり宿命に隔離されてあるものである事を暗示して映画は終わりました。希望の原理とは 童謡とは異なって籠の中のカナリアは歌を忘れなかった と言う点でしょう。但し、籠のなかで飼育された鳥は自然環境の中に置かれて命を全うするのは困難であったかもしれない事についても想像して観る事も映画鑑賞する態度としては必要でしょう。また画中に描かれたお好み焼きとどら焼きの対比も不適切と言えるでしょう。何故どら焼きは良くてお好み焼きは駄目なのでしょうか?些事に拘るようですが、案外 差別意識とは 秘密のアジトのように 私たちの固定化された物の見方の中に 案外 潜んでいるものかもしてませんね。


 樹木希林さんをはじめとする脇役陣の演技もまた 誇張がなく、自然態で素晴らしいものがありました。永瀬正敏さんと言う名前を初めて知りました。寡黙な演技が素晴らしかったです。ロケ地になった東村山市にも行きたくなりました。ありがとうございました。


 樹木希林さんのご冥福をお祈りいたします。合唱