あるプロダクトディザイナーの共働きの夫婦ーー 私の義理の息子の一人が とある企業のプロダクトディザイナーをしているのですが、彼の社内での広報誌に寄せられたイヴァン-イリイチへの言及と 資本主義下に於ける大量生産大量消費システムとIT環境下におけるオートマティスムと人間の創造性と固有性をめぐる ヒューマニスティックなプロダクトのあり方を巡っての対話の一部の収録です。
 日本の民間企業の広報誌において、長期の経営戦略をめぐる雰囲気の一端ですが 国際環境下に置かれた日本の経営システムも変わりつつあるのでしょうか?私は自分の社会人の過年の環境と経験と照らし合わせて、あまりにもの企業環境の格差 段差に正直驚きました。驚くとともに羨ましいと感じました。羨ましいと感じ 思うと同時に 彼の仕事を誇りに感じ それを許容する彼の属する企業の環境と理念に敬意と感謝の念を抱きました。
 それでは、ご紹介します。

本文
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 もの(プロダクト)或いは物の生産過程には二つの意味があります。一つ目は、もの或いは物の生産過程とは 言葉の頽落した形態であるという見方があります。なぜなら言葉とは人間が生きているありのままの現在を意味します。その生きている言葉が退化して静止状態になって死物化した有様を、もの(マテリアル)と考えるのです。
 もの(マテリアル)とは言葉の頽落態です。

 他方、もの(プロダクト)或いは物の生産過程にはこれと正反対の定義があります。つまりもの(プロダクト)或いは物の生産過程は言葉から生まれ、言葉の外在化としてあるけれども、そのもの化、物象化、外在化の過程が聖なる過程を通過するものであるならば、ものとは押し並べて聖なる物質に他ならない、という考え方です。つまりこの世は聖なる物質に囲繞され祝福されている という考え方です。その歴史的な具現化が、例えばゴシックのアーチ組の構造であり、耀ける物質の具現化の象徴がステンドグラスの輝きにほかならない と言うのです。

 もの(プロダクト)或いは物の生産過程を考える場合は、その背後に言葉があり、言葉と「もの」をつなぐインターフェイスの境界面に道具が存在します。

 イヴァン-イリイチは60年代のカトリック左派に属する思想家と思われ キリスト教的なものの考え方に限らず、かかる物神崇拝への反措定はあらゆる宗教に共通するものの考え方ではありますが、古くはガンジーや毛沢東にもその一端 そのきらいはありますね。文化大革命は悪しき一例ですが、資本主義のシステムを破壊するのではなく 市場経済のサイクルに取り込めない部分をどう評価するか?ですね(!)その為には自然に学ぶ必要があるし シャドーワークに就いても学び必要があるし さらにはナチュラルである事が無条件で良いわけでもなく、双方の限界を見極めて 緩やかで多元的な資本主義のシステムが模索 提案できたら良いと思います。

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 人間の自己形成のヒエラルキーを三段階に分けて説明します。
 1️⃣目的の最大効率化を基準に自分が取るべき人間の条件を最適化解として考える習性を持つ 合理的且つ論理的行動人の肖像。
 2️⃣目的に条件が依存すると考えるのではなく、より良い生き方を求めて それを実現する為の条件を人間の条件として捉え直し それを人間に固有のものとして 自ら主体的に設定するギリシア的自由人の肖像。
 3️⃣条件に囚われずに奔放に生きる〜仙人と天才たちの世界と肖像。
 3️⃣の世界は誰にでも可能ではありませんが、例外や特殊事例として考えるのではなく、敬意を持って接する事が大事だと思います。それがあなたのキャパシティになるのです。

 言葉は人間を通して1️⃣から3️⃣へと遍歴しますが、その遍歴が私の言う 聖なる物質に至る聖なるものの表参道 或いは紆余曲折に満ちた凡人たちの聖なるお遍路道なのです。