上映

午前11時の
日本映画・アジア映画クラシックス



 この映画が七月のシネラで上映される理由は、単に 映画の中段でお能の『杜若』が描かれるからと言う季語じみた語呂合わせにすぎないのです。表向きの松竹女性向き映画の映像表現としては 婚期が遅れつつある娘の「晩春」じみた憂愁がやがては晴れて初夏の爽やかさのように時のなかを推移していく〜まるで茶席の簡素な床の飾り付けのように 質素な道具立てでありながら そこはそれなりの季節の花〜「杜若」の華やかな季節に移ろっていくと言う含意がありますが、果たして娘は幸せになるのでしょうか。お能『杜若』には望郷 さらには妻と滅んでいった日本への慕情と郷愁の念が背景にはありますが、同工異曲の試みとしては小津安二郎晩年の遺作『さんまの味』があります。共通 類似する点は 掉尾の画像の中に婚約者の映像が見当たらない事です。小津映画の常套としては婚約者の姿が描かれない場合は結婚生活が必ずしも幸せなものとはならない事を暗示しています。

 そのような半悲劇的な未来を当否は問わず脇に避けて恣意的に読み込んで観ると 最後の場面で父親の林檎の皮を剥くぎこちなさと その静止画像の意味がより深くこころに応えてくるものがあると思います。

 それでは前書きはこのくらいにして 本文をお読みください。




本文

 なんど観ても新たな発見がある小津映画の一品です。

 笠智衆と杉村春子を 動と静 或いは静と動の位置に配置して その中心にヒロインの原節子を置くという 巧みな構成です。

 今回は よくある婚期に遅れた娘の婚約話しを映像と画像で聴きながら あらためて蝕まれる時への讃歌〜と言う感慨を持ちました。

 現在と言う時がかけがえもなく美しいものだとして それを壊す権利は誰にあるのだろうか?と言う感慨を持ちました。未来や世の中の仕組みや仕来りに争う術もなく、現在と言う時制は心にもなく移ろい崩壊していくほかはないのでしょうか。

 もしヒロインに生活の手立てと幾ばくかの資産があったなら!ヒロインの親友を演じた月丘夢路演ずるブルジョワの娘はそれを備えています。資産家の令嬢であるのにタイピストというーー当時は先端的な職業をファッションとして身につけている彼女は、ある意味で万能です。ヒロインの原節子演じる地味な学者家庭に育った娘から見た場合に!ところが 当の娘にすれば かかるーーこのような古びた古書店のような雰囲気 戦前の世離れした知識人たちの雰囲気と言いますか、そうしたものに娘が執着している事も知らぬ父親のおおらかさ と言うか 鈍感さがとても長閑でペーソスが染み込んだ 懐かしい家庭の雰囲気なのですね。

 映画の中でもしばしば、価値観や世界観の古い新しいが論じられていますが、娘を結婚させるために父親は再婚の劇を演じて見せたと言うわけですが、出来すぎた話しだと言う見方も存在するでしょう!しかし古い新しいと言う選別の原理を超えて父親は娘のために男の貞操!を貫くと言う泣かせる話しなのですが、背後には亡くなった妻への慕情があったのだと思います。この映画だけを見ているとありふれた中産階級の日常と思われがちですが、この映画が制作された時代は戦争が終わってまだ三、四年しか経っていないのですよ。小津安二郎がかかる時代背景をもっと踏み込んで描いていたならば、娘の逡巡の気持ちももっと深みがあるように描かれたでしょう。実際には『東京物語』では原節子演じる娘はそのように描かれています。紀子三部作と言われながら、『晩春』と『東京物語』が密接な関係がある所以です。

 それから月丘夢路演じるブルジョワの出戻り!娘も良い立ち位置ですね。彼女はその後の戦後と言う時代を先取りするかのような価値観の持ち主であるにも関わらず、こと親友の婚約劇に立ち会う同志としては 古い価値観への共感者となって掉尾の場面を華やかに締めくくります。古いとか新しいとかは関係ないのです。蝕まれていく現在時と言う時への敬意がそうさせたのだと思います。