このところバタイユの『文学と悪』に難渋しております。ところどころ拾って読み返したり読み直したりしております。

 彼のプルースト論に触れ カフカに世界の一端に視界は広がり、さて エミリー-ブロンテの世界の登場です。

 例の拾われ孤児ヒースクリフの復讐劇 後味の悪い作品ですが、バタイユはこれを高く評価し 稀に見る偉大なる恋愛小説である と言うのである。

 ここに於いてもミス-エミリーの謎を解くのは至高性の概念ーーつまり無垢なる少年期の固有の思い出なのでした。

 ヒースクリフは引き裂かれた少年期の思い出のゆえに 世俗に対して、現実には固有の一家の家系上の人物たちを目掛けて 無作為の復讐劇を演じるのですが、ご承知のようにこのドラマにはカタルシスがありません。この世の一切の終わりである 死と言う事態さへも彼の横恋慕にも似た恋情を阻止することはできませんでした。

 小説のヒロインキャサリーン-アーンショーの二面性は敬虔な道徳と人間性の倫理への傾斜と 魔の情熱に囚われた青年の慕情をも裏切られない と言う矛盾した感情でした。なぜなら、まるで絵に描いたようなスラッシュクロス邸の日常は 苦行僧にも似た彼女の資質にはそぐわないものがあったからかも知れないからです。この少女には何故にか故意に幸せを罪悪視するような世界観が育まれていたようなのです。ヒースクリフを愛していようとそうで無かろうと、愛憎交々の対象こそ彼女自身だったとすれば簡単ではなかったでしょう。彼女の恋情は恋愛感情というよりも対象に投影された対他化された自己憐憫に近いものではなかったでしょうか。私たちはしばしば自分たちの周囲に 幸せになるチャンスは幾度かはあった筈なのに、偶然的理由によるものか固有の事情によったのか、決まって幸運の微笑みをご破算にしてしまう人物たちがいるものですが、キャサリーンとはそう言うタイプの人間のようでした。

 『嵐が丘』を恋愛小説だ!と言い切るバタイユの所論に同意できないのは、バタイユの言う根源的な「悪」に直面したとき どのような態度が取りうるのか?と言う課題でした。しかも狂気の対象が他ならぬ自分自身の分身とも言える固有の対象であった場合に!確かに ヒースクリフが考えているように 凡庸な幸せはなんと悪のリアリティーと並べてみるとき、空疎な世界である事か!

 キャサリーンは、ヒースクリフの悪の魔性を宥めるために、却って聖女の世界の方に押しやられてしまいました。ヒースクリフの横恋慕にも似た恋情は物理的に 死によって阻まれるとともに、聖なるものの善性に寄っても 二重に阻まれる事になったのです。

 ジョルジュ-バタイユの、悪とは夢見られた善の正夢である と言う解釈は魅力的であるけれども 『嵐が丘』を純粋な恋愛文学であると言う所説には同意できません。確かに 悪を自己本位の凡庸な悪と情熱的な悪とに区分すれば 悪徳とは聖なるものに至る裏参道ではあるでしょう。裏参道であるが故にこそ 表の正道とは違ったリアリティの厚み 深み 多様さ つまり生の世界の質的な重み 質感 と言う事は言えるでしょう。係るバタイユの反転された負と悪の世界をめぐる地獄廻りの探訪は そのままバタイユのサド論やプルースト論に顕著に発展的に継承されることになるのだと思われます。