「人類が最も幸せであった時代」とは 同時に人類が宗教と関わること 最も少なき時代でもあった。



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 特に今更〜何十年と文学と歴史ものの本を読んできてーーしかし 歴史ものは、事実がどうあったか?と言うものよりも 私たちの意識域の前提をエポケーしてくれる事に特色がある。それは尺度となる時間軸の目盛りが違うからだろう。文学やその他の諸分野のものではこうはいかない。

 歴史ものを読む価値は、そこに現代史的観点や 我々の生き方 価値観 人生観などを確認するために読んでも何にもならない。それらの類の自己確認は、他の分野やハウツーもので事足りるからだ。抽象的な話をしても仕方がないので ちょうど旅先で読み終えた『ローマ五賢帝』はどうだろうか。

 一口に言えばこう言う事になる。

 私たちは本書を読むことでローマの全盛期の統治のあり方を学ぶ。五賢帝の時代を経てローマが衰退に向かう時期とーー例えば実務型の人材登用 実力主義型の統治の支配体制への変化は あろう事か一致している。つまり、現在私たちがビジネス関連の報道や雑誌で報道され新しいモデルと了解しているビジネスモデルは ローマ時代の通史を読む観点ーー数百年から一千年を一単位とするーーからすれば もはや元老院統治の統治形態の緩やかな人事制度では立ち行かなくなった 社会が厳しい環境に直面した時に取らざるを得ない 時事刻々の即物的に変化変限するーーよく言えばーー是々非々の政治形態 であることが理解出来るのである。つまり 極言すれば 私たちが「普通である」と思っているものは特殊なあり方のひとつであるかも知れないのである。

 即断して 私は現代文明が崩壊に向かいつつあると言う事を主張しているわけではない。しかし 世紀が改まる今世紀に於いては 世界の一角で、或いは枢要な地域で きな臭い臭いが立ち始めている。もはや 世界史とは若きヘーゲルの世代が空想したような 理性の自己展開の歩み 歴史とは自己実現の過程に他ならないーーとは言いかねるようになってきたのである。

 人類に自浄作用がない点は明らかである。その事を自ら知って歴史の重みに堪えた ティベリウス ハドリアヌス ピウス、そして哲人皇帝マルクス-アウレリウスに 現代の政治家以上に親しみを感じることを禁じ得ないのだ。私はーー例えば日本史を、このような感慨をもって読んだことはなかった。なぜであろうか?


 ローマ帝国はなぜ滅びたか?古来より繰り返し問われたこの問い!寧ろ こう言うべきであろうか。良きにせよ悪しきにせよ人間の顔を持った歴史がなぜ数百年の長きに渡って維持され得たのだろうか?この問いは ギリシア民主制を念頭に置いても言いうる。

 共和性崩壊以降のローマとは 皇帝の権威と元老院の伝統に基づく規範意識の他は 所詮相反する諸力の均衡の上に成立するクーデター政権に他ならなかったのだから。係る政局的幸運がなければゲルマン民族の侵入がなくても、いつでも内部から崩壊したであろう。

 しかし このような諸皇帝の群像劇とともに世界が滅びるのであれば 紆余曲折 七転八倒 暗中模索の世界史も 僅かばかりの光と慰めの糧を得るのではなかろうか。二千年近くも前の人々の息吹とため息を傍に感じながら〜。