国木田独歩に『忘れえぬ人々』と言う小編がありますが、当時の大山街道に面した亀山と言う旅館と言うか旅籠めいた侘び住まいの宿りに、大津と言う青年と出会い別れた それだけのお話ですが いまとなっては なぜ独歩が固有の武蔵野の灌木と雑木林とからも離れた 大河多摩川のほとり 渡し舟が行き交う宿場町に一夜の宿を求めたのかも謎である。私の想像では大津と言う青年は架空の存在で むしろ独歩の宿りの 或いは亀屋の亭主との語らいであったのかも知れない。

 この独歩固有の この日この時の出来事は むしろ後の経緯をみると宿主亀屋の主人の方にある種の感銘を与えていたかの如くであって、後々までもその日 その時を顕彰する彼の意志は 時を経て 時を繋いで顕彰碑像立への意思として地域に伝えられて来たようである。実際に私が当時を歩いた2011年ごろにはまだ家屋の一角が『忘れえぬ人々』の思い出のギャラリーとして 独歩関連の資料が展示されていたように記憶する。今日 その資料室は跡形もなく消え去って流れ去る時の無情さを喩える詠嘆の記述に格好の口実を与える事になりそうだが、それでも記憶の痕跡はなお綿々と己の意思を貫き通したかの如く、地域の図書館の前提に記念碑が残されていると言う。

 後に 大山街道に関わるこの一本道は、少し先の多摩川ベリに かの岡本かの子の文学碑が建立去れるに及んで、私にとっては思い出のある文学的p感慨の道となった。

 と言うのは 独歩やかの子に関わることではないのだが、当時の私の心境である。当時退職を迎えたばかりの私は、子沢山の上に幾多の学費の捻出に苦慮していた。幸いに第二の職場にも恵まれて、加えて定例的な生き方から解放された私は、第二の青春とも言うべき時期に差し掛かりつつあった。運命の行幸に感謝しつつ 平安と安寧の日々が一日も長く続くようにと 祈りにも似た日々がそこにはあった。いまでも、快晴の記憶はないから やや重苦しい曇天の空の下を 或いは傘を差して歩いていたようにも記憶するから ちょうど 今頃の出来事であったかもしれない。

 私の記憶のなかでは、独歩のさすらいの日々の懐かしさと、当時の健気にも生きていた日々の思い出が重く閉ざされた曇天の記憶とともに混淆され懐かしく入り混じっている。