南米はペルー、スペインの植民地化が進む18世紀の初頭のとある占領下のとある町ーーと言っても 西部劇に出てくるような砦めいた宮廷と そこに総督を始めとする貴族たちや官吏やその家族たちが暮らす 居留地めいたところが舞台である。確かに占領化された地域ではここに行政府があるらしいので 首都のようなものなのだろう。行政府の会議や その合間には舞踏会のようなものも開かれているので ミニサイズのスペイン風宮廷がペルーに存在した と言う事は初めて知った。居留地の臨時政府めいた行政府の議題は、クスコの攻防戦が断片的に語られているので 戦時体制下の臨時政府のようなものなのだろう。にも関わらず、戦時下にも日常はあるもので 当時のスペイン王宮の風俗と慣習を移植スペイン人はそのまま持ち込んで来ている。貴族には舞踏会 庶民には闘牛による陶酔と興奮 そして気晴らしの野外劇じみた仮面劇である。

 さて ここにイタリアからコメディア-デラルテ仮面劇の一座がやって来る。一座の花形女優カミーラは一座の用心棒のような役割の騎士殿と恋仲にあるが、彼女をめぐって好色漢の総督 当地のスターであるところの闘牛士武も交えて四角関係のドタバタ恋愛喜劇が演じられるのだが、そのドタバタ劇の中軸にあるのが総督が注文した かの黄金の馬車なのである。

 この総督と言う男が只者ではない。お殿様であると同時にドンファン風色好みの意気と粋に達したものであるらしく、政治や世渡り術よりもドンファンの哲学 色好みの美学の信奉者のようである。曰く、恋はするけれども嫉妬はしない!と。彼はひたすら恋の洗練を問いてカミーラの心を掴んでしまう。(結果的にカミーラと恋愛関係にあった騎士殿は失意の中にクスコの戦闘に志願して立ち去ってしまう。)


 その総督が カミーラに恋人である事の証として献呈したのが黄金の馬車なのである。


 この黄金の馬車の処置をめぐって 王宮自体が紛糾する。貴族の参事会は合議によってーーカトリック大司教の了承があればーー総督を罷免できる合議制の体制であるらしく、実際に形勢は罷免の方向に進むかのように見える。背後には、クスコを巡る攻防戦に於いて 戦費を調達するための寄付をーー強制的に!各々の貴族に課すと言う総督の長としての提案に反発があるらしい。しかし 王宮は戦時政府のようなものだから 母国のスペイン国王への忠誠への手前 表立って反対も出来にくいのである。


 黄金の馬車は、一方に宮廷の政変劇を進行させ 他方では、男らしさの概念を巡る四角関係の恋愛喜劇としても進行する。


 貴族連中に反対され 罷免を仄めかされつつ撤回の署名に追い込まれた総督の弱腰!を尻目に、カミーラはさっさと黄金の馬車に乗り込んで宮廷を脱出してしまう。なぜなら時間の先後関係から所有権は彼女に帰していたから!

 ところが黄金の馬車で帰宅した彼女を見透かすように かの闘牛士が訪ねてきて定石通り 強引に言い寄る。なぜなら女性と牛の扱いは彼にとって同等のものだから。総督が議場で見せた優柔不断と不甲斐なさゆえに 闘牛士に真の男らしさを認めないわけにはいかない。しかし 闘牛士の正に男の中での男である所以の絵に描いたような男らしさ!とはなんだろうか?単純な男らしさは分かりやすくて良いのだが 中身がまるでないではないか。

 丁度 折よく騎士殿もまたクスコの戦闘から帰ってきて鉢合わせの仕儀となる。

 もちろん 総督も訪ねて来る事になっていて三つ巴の大騒ぎ 大悲劇になるらしい事が予感される。実際に大騒ぎになる!


 総督は明日にも自分は罷免される運命にあり 無一文になる事をカミーラに告げる。あの彼一流のドンファンの美学はどうなったのだろうか。彼は全てを失って唯の男として生まれ変わったのだと言う。普通の男として目覚めたのだとも!社会的身分や経済力に関わらない 純粋な近代人として目覚めた彼がここに 眼前にはいる。至高の愛の為にサインを拒否し 社会的身分を失った総督に、つまりただの男になった総督の現場にカミーラとしては少しばかりの負目と責任を感じないわけには行かない。しかしただの男に成り下がってどうするのだろう。近代的恋愛の見本に対して彼女はそれをどう処遇するのか?


 他方 騎士殿は戦場で様々な苦労を重ねたようで 戦地で捕虜となった屈辱的経験と その彼を遇した現地人のモラルの高さゆえに 今は西洋文明を外側から批評できるポストコロニアル風のオリエンタリズムとルソー的ナチュラリストの混淆形態として登場してくる。言わば二十世紀思想の先取りである。

 とりあえず 鉢合わせした騎士殿と闘牛士との間で決闘が始まる。決闘はこの時代に於いても御法度で 遂に警察の介入によって二人は連行されてしまう。


 翌日 宮廷ではいよいよ総督の罷免が議決され 公爵が新たに新総督に任命される気配である。ところが その宮廷にカミーラが颯爽と大司教を伴って登場し カトリック大司教の歯の浮くような大演説に寄って神の御心によって大団円が齎された事が宣告される。すなわち、黄金の馬車は既成事実として教会に寄付された と言うのである。今後は瀕死の死の床にある者が望むにであれば、黄金の馬車を使って天国に届けよう、と言うのである。また 次に控える記念ミサの会場に於いては かの歌姫カミーラが歌うことも予告される。総督も「総督」として招待を受けたのであるから 大司教は罷免には結局 同意しない と言う事なのだろう。

 こうして万事が目でたく解決し カミーラのもう一つの 舞台の外で行われた野外劇 ページェントは終わりを迎える。

 こと終わりてあたりを見渡せば、彼女の周りで華やかな活劇を繰り広げた三人の男たちの姿は既にない。真の男らしさ とはなんだろうか。誠実 勇気 優しさ 何があっても 何が演じられようと 所詮は舞台の真実には届かない と!シェイクスピアの述懐のように!

 真実は 舞台と芸術の中にしかない と言うお話しでした。