豪華絢爛たる平治の乱を時代背景にした武者絵巻である。

 長谷川一夫の無骨な武者ぶりも良いけれど 全盛期の京マチ子の美しさを欠いたならば、随分と趣きの異なった映画になっていたのかも知れない と思わせるほどの美しさである。『羅生門』の京も美しかったけれども 映像映えする女優さんであった事を思い知らせる映画の醍醐味である。

 

 衣笠貞之助の映画造りもまた 巧妙に、説得的である。平治の乱の報奨として盛遠は御所仕えの女御 袈裟を所望するのだが、袈裟は既に人妻であった。盛遠の凄いところは、諦めず、周囲の換言にも耳を貸さず猪突猛進する点だろう。常識も倫理も道徳もなく 敢えて法律をも解せず 己の欲望を完徹しようとする。

 盛遠の現実離れした自我完徹 欲望の盲信振りには背景があって 長らく続いた宮廷社会から 己のアイデンティティは自らの力で勝ち取ると言う武家の法則へと変化しつつある権力のイデオロギーと構造の変化があったのかも知れない。平清盛が表面では諌めるように見えても決定的な己の影響力を行使しないのは、彼のイデオロギー的戦略敵利害も関係していたのかも知れない。加えて保元平治の乱の勝者であった後白河院と平清盛の政権内部に於いても 御所方と六波羅方との間に 心理的で微妙な関係があったのかも知れない。権力構造内の差別化からは、盛遠は六波羅方であり 袈裟とその夫は典型的な御所方であった事が目立たぬ形で 陰に陽にあった事が丁寧に描かれている。

 盛遠の袈裟への横恋慕は、内部権力の代理闘争のようでもあった。誰の目から見ても理不尽としか思えない事の成り行きに、様々の周囲の関係者が阻止できなかった理由には、かかる代理戦争であった事の象徴的意味合いがあったのだろう。

 また ご時世とは言え 後白河院も平清盛も倫理道徳的に高潔な人柄とは言いかねた。袈裟は自分自身の貞操を守るのに夫もまた御所方の力も借りる事が出来ないとするならば、世相を諫めて死ぬ と言う他はなかったのである。

 戦乱の世という 平時の観念や社会通念が通用しなくなった時代に於いて 夫や身内方の御所権力も当てにならないとするならば、非力な妻は一人の女として如何にして権力が持つ悪と対峙すれば良いのか?

 袈裟がとった最終手段とは 単に死んでみせる事ではなく 夫の身代わりとして死ぬと言う 権力構造への抗議であった。


 とは言え これほどまでに己の欲望を貫いても悔いるところは無いと盛遠に思わせる美貌は、全盛期の京でなくては説得力を持ち得なかったであろう。

 映画『地獄門』は、根源的悪に直面した個人が如何なる助けを得られぬ絶望的状況の中に置かれた時 人としての尊厳を守る為に如何なる手段が残されていたか と言う物語である。乱世の時代に於いては 妻といえども武士にとって所詮は物品の一種のようなものであったから このような話はあったのかも知れない。