ロシア文学を想い出すたびに思うのは この偉大なる国民と繊細なる人々は何処へ行ってしまったのだろうか、と言う感慨にも似た想いである。歴史には見事な断絶 或いは断絶的継続があって 今日のロシア国民の表情に似た相貌を想い出させるものは何もない。同じ事情は中華人民共和国に就いても言えて 偉大なる中華の伝統と現下の中国共産党政権下の 極端に権威主義的で反文化的な社会の何処に痕跡を見いだすべきか困惑してしまう。事情は旧共産圏並びに共産主義盟主國の遠近 近傍の事情だけに限らず、近代日本の社会に就いても同様の事情を指摘する事ができる。しかし 日本の近代化百年はここまでの規模での断絶を経験していたわけではなく、寧ろ 戦後も随分経過してから すなわち平和的事情の日常化の過程で 徹底的な断絶が進行したかにみえるが これはまたの機会に考察する事にしよう。


 ツゥルゲーネフ描くところの『初恋』が描く世界の青春や若さが持つ瑞々しさは、もはや懐古的事実と言うよりも考古学的現実に近い。なぜ、現代の文学ー社会学的政治学或いは政治学的社会学に携わる人々は一度として あたりまえの事のように 歴史が持つ断絶感に就て語らないのだろうか。事実は近代〜現代史と言う僅か百年を越える程度の時代幅で起きた事実であるのに過ぎないのに。まるで新石器時代の人類とロシアの現代史が同居している感があるのに、それを自明視してしまい 驚くと言う所作を忘却してしまったかのように!

 今日に於いてもなお『初恋』が読まれているのは、寧ろ時代と係る事なくなる或いは時代を超越して語られる愛と真実を作家が語ったかに他ならない。時代を超えて 語るにたるプライヴェートな真実として。


 『初恋』にはふた様の愛の形が描かれている。題材は一人の女性をめぐって二人の男が愛してしまうと言うものだが、通常の良くある三角関係と異なるのは、互いに恋敵になる二人の男とは父と子であった事だろう。

 『初恋』が優れているのは、単なる青春の思慕と至純の書として語られる青春の愛だけではなく、帝政末期と世紀末を予感した歴史のうねりの中で 末期を見据えた大人の愛がまるで束の間の愛の物語であるかの如く エピソードにも似た細やかさに於いて語られた事にもよるだろう。息子の父親への信頼と敬意は一貫して変わる事はない。それは闇の夜の秘密を解くように 謎の第三の男とは他ならぬ彼自身の父親であったと言うショッキングな事実を知った後に於いても また父親の情事?が当時の社会的通念や倫理 道徳に照らし合わせて どう言う意味を持っていたかを勘案してからの後でさへ 変わる事はない。なぜなら情事であろうと不倫であろうと愛が持つ 愛に固有の 愛の神聖さに就いての語り手の信念には一貫して変わる事がないからである。青春の至純な思いが 大人の愛の形の中にある至高なるもの 至誠なるもの 聖なるものの価値をツゥルゲーネフは見逃さなかった と言うべきだろうか。

 ヒロインのジナイーダの人間造形もまた 二人の男の愛の高貴さを受け止めるに十分なものだった。十分と言うよりも 愛するようになってからの彼女は それを遥かに越える神聖さを秘めていた。語り手は、彼女の生き様を通じて初めて愛とは何であるかを学ぶのである。

 愛とは、何を差し置いても謙りの愛であり 献身の愛であった。愛は自らを謙らせ、自らを不当に貶め 自らを罪人として とるに足らないものとみなす事によって 冷厳な自らの法則を貫く!

 ものの喩えとして 愛の鞭 などと言う言い方を私たちはするけれども、この小説の後半部分のクライマックスに当たる場面ではその愛の鞭が象徴としてではなく 現実のシーンとして出てくる。語り手が 目を背けず 自らの危険をも顧みず その場に氷柱か透明なカメラの如く留まるのは、聖なる場に臨場したものの立場として たじろぐ事なく、それを経験する事がある種の人としての義務のように感じられたからに他ならない。

 ヒロインのジナイーダが 語り手を真に愛するようになるのもまた 自らの愛を謙りとしての愛として理解し実感したのち、つまり語り手の彼女を少年のように慕う献身的な 直向きな愛の姿の中に 自らの愛と類似したものを見出していたからに他ならない。

 『初恋』が 青春と愛と情事の不倫関係を描きながら性的な要素に就て語らないのは、時代の制約ゆえに と言うよりも 謙りの愛の次元に於いてはそもそも性的な要素は愛の稀有性が本来的に持つ圧力 気圧の高さに耐え切らず 尽く、燃え尽きてしまうからである。亜流フロイト流の性解釈が通用しない領域がこの世には存在するようなのである。